私の故郷ー湖北・随州

歴史と場所を知る

私の故郷は湖北省の随州市である。大学に入学するまでの18年間、ずっとこの場所で生活していた。

小さいころに住んでいたのは鉄道職員の家族が住む集合住宅で、駅のすぐ近くであった。その住宅街に住むお年寄りたちはみんなその場所を「山上」と呼んでいた。そのエリアは線路によって外の世界とは隔てられていて、まさに一つの独立した生活圏を形成していた。そのエリアに入る方法は二つあった。一つ目は北側の土の道を歩いて行くルートで、大通りのバス停にたどり着く。もう一つは南側の陸橋を通るルートだ。陸橋は線路の上を通る形になっており、大通りにつながっていた。

私の父方の祖父がこの場所で働くようになったために祖父や父はこの場所に住むようになり、父が駅で働いていた母と結婚して、私が生まれた。

山の上には病院や小学校があるとともに、陸橋の方向に歩いて行くと一軒の比較的大きなスーパーがあって、さらに何軒かの小さなレストランがあった。そのうちの一軒の主人は本当に人柄がよく、おばあさんと話をしているとき、いつも小さなプラスチックのコップを出してきて、巻貝を10個程度入れて、私に御馳走してくれたものだ。巻貝をもらうと、私はいつも一人小さな椅子を道端まで運んでそこに腰を下ろし、爪楊枝を使って巻貝を黙々と食べているのだった。道を行き来するオートバイを見ながら、そのオートバイが巻き上げる道いっぱいの砂ぼこりには気をとめず、口の中の巻貝の、味覚を消失させんばかりの辛さについてただ考えていた。

私たち家族は建物の最上階に住んでいた。建物の前には大きなグラウンドがあり、さらにその向こうは山の上の病院で、祖父は以前その病院で働いていた。幼いころの私は体が弱かったので、頻繁にその病院のお世話になっていた。病院の後ろ側は入院病棟で、大きな敷地の中に病棟の建物が立っていた。曲がりくねった通路を進んでいくとそこかしこに生えている木が天を覆わんばかりに茂っていた。木の影の間から見え隠れする太陽の光が縦や横に交差する枝や幹を通過して衣服の上まで届き、そのようにしてできたまだら模様が今までに何度も私の夢の中に出てきたのだった。夏は涼しく蚊が多かった。また、秋には葉っぱが黄色く色づき、やがて足元は落ちた葉っぱで埋まり、その上を踏んで歩くとからからという音が出るのだった。病院の入り口には雲を目指してまっすぐそびえる給水塔があり、家からは勿論、学校からもその姿を見ることができた。その給水塔はすでに一種の記憶の中の釘となって、私の子供時代を生き生きとした姿のままそこに打ち留めており、だから私は世間に流されて漂うこともなく、夜の浅い眠りの中で聞くのびやかな汽笛の音に連れられて遠くへ行ってしまうこともない

私が少し大きくなったとき、私の家族が市の中心部に新しい家を買ったため、今までの場所から引っ越した。新しく引っ越した場所はよいところで、便利なうえににぎやかで、すぐそばには私が通うことになる小学校もあった。小学校5、6年生のときに新しい国語の先生が来て、毎朝一時間目の前に朝の読書をするように言った。それで、皆が花壇のそばに座り、手に本をもって、前の晩に見たテレビドラマの感想などをおしゃべりするのであった。先生がこちらに目を向けたときだけ、本を読んでいるふりをするのだ。最も印象深かったのは、学校には2か所の小さな購買所があり、私の友達の一人が毎朝正門脇のその購買所に行き、朝ご飯を買っていたことだ。その朝ごはんというのはインスタントラーメンで、中には卵も一つ入っていた。私の記憶では、一杯のインスタント麺が1元で、さらに5角払うと卵を追加できるのであった。私はその友達がラーメンを食べているのを見ると自分も食べたくてたまらなくなったのだが、祖父がインスタントラーメンを食べることを許してくれなかった。

「インスタントラーメンには栄養がないから食べてはいけない。背を伸ばすためには、いっぱい勉強して牛乳をたくさん飲まないとだめだ」

私は今でも身長が158㎝しかないが、これを牛乳のせいにすることはできまい。

中学生の時、学校から近いところに「神農公園」という公園があった。随州市の観光宣伝の標語は「炎帝神農故里、編鍾古楽之郷」というものだ。「神農(中国の神話伝説時代の皇帝である炎帝神農のこと)」という公園の名前はここから来ている。公園の中にはとてつもなく大きい神農の彫像があり、神農はあぜ道に腰を下ろし、両手で稲を持っており、おそらく「神農がそこかしこの沢山の草の味を確認して、薬草と毒草を識別している様」を表しているのであろう。いつも何人かのおじいさんたちが彫像の下で字を書いていた。モップほどの大きさの大きな筆にきれいな水をつけ、コンクリートの地面に字を書くのだ。筆さばきには力がこもり、動きには抑揚があった。字が残っているのは数分間だけで、やがてたちどころに水分の蒸発とともに消えてしまうのだが、行きかう人々はみな足を止めて眺め、皆が割れんばかりの拍手を送るのだった。

ある年の春に祖母が、凧揚げをするために私といとこを公園に連れて行ってくれた。私たちは糸を手に持って凧を引っ張り、彫像の立っている広場を行ったり来たりした。その日は風がなかったので、凧が空に舞い上がることはなかった。2年前に祖母は亡くなり、私たちを凧揚げに連れて行ってくれたのもその一度きりになってしまった。上がらなかった凧は本棚に入れたままだがが、今ではもう見つからなくなっているかもしれない。幸いに、誰かがそこで凧を揚げているのを私はそれ以後見たことがない。

編鐘(古代中国の打楽器)に関する話をしよう。2年前、たまたまテレビで「国家宝藏」(様々な国宝を紹介する中国のテレビ番組)の初回放送を見たのだが、編鐘は湖北省博物館が展示した三つの所蔵物のうちの一つである。それの評判は元来言うまでもないので、出土したその編鐘について話をしてみよう。編鐘は曾侯乙墓で出土したもので、その遺跡が現在でも保存されているのか私は把握していないが、それに関する話はいくつか聞いたことがある。

「我々は当時何人かで採掘していましたが、まず瓦や石の破片が出てきて、さらに掘れば掘るほどいいものが出てきました。私は以前建築学を学んでいたので、この状況は少しおかしいと思い、すぐに彼らに作業を止めさせました…」

私の故郷は特別有名なグルメがそんなに多くはないが、特産の野菜はいくらかあり、例えば「泡泡青」というものがある。地理的な位置のためなのか、あるいは気候や土壌のためなのかわからないが、この野菜が生育するのは随州だけだ。調理方法も簡単で、直接炒めてしっかり火を通し、塩をかけて盛り付ければ完成だ。歯ごたえがよくておいしく、私が一番好きな季節野菜の一つだ。

热干面

高校の向かい側に道路を渡って行き、路地をいくつか抜けると、そこは界隈で最も有名な朝ごはんのお店が集まる場所だ。まずは麺類がある。牛肉拉麺、ジャージャー面、熱乾麺、酸辣粉、昆布粉などである。鍋からお椀に盛り付けるときに、手ごろな大きさに切った葱のみじん切りをお椀に振りかけ、しょうゆ、お酢、唐辛子を好きなだけ入れる。さらにエメラルド色の小さな白菜を温め、麺の上にのせて、表面がきれいな黄色に仕上がった虎皮を加えれば、その日丸一日分のエネルギーをしっかり補給できる。さらに粉ものがある。小籠包、蒸し餃子、油条、皮が薄くて具のしっかり詰まったワンタン、スープが濃厚な水餃子、黄金色でサクサクの面窝、外はこんがり中はしっとりの韮菜盒子(ニラの中華おやき)、砂糖が中までしみたゴマ団子などだ。醤香餅は焼き立てで、薄くてもろい皮が幾重にも重なり、そこの主人秘伝のたれが塗られ、白ごまでびっしり覆われ、ひと口噛むと肉汁が口の中にさく裂し、飲みこんだ後も依然として口の中に風味が残り、いつまでもその味を楽しむことができる。主食があれば、さらに付け合わせの飲料品も忘れてはならない。豆乳、米のお酒、黒米粥、それから甘い豆腐脳などがあり、これらをセットで頼んでこそ一人前の朝食となる。高校のとき私は通学生で、土曜と日曜の朝の自習がなかったので、寮に住み、自習をしているクラスメイトたちに学校の外で朝ご飯を買って持っていってあげた。皆で教室の外に一列に並んで立ちながら朝ご飯を食べ、香ばしい匂いが湯気とともにおなかに入ってゆく。そうした日は実り多い一日となったものだった。

私は10月に日本に来た。日本に来る前の夏、毎日夕暮れ時になると、母は電動バイクで私を白雲湖に連れて行ってくれた。夏の夜風がいくらか熱を帯びていたが、湖から吹いてくる風は涼しくて爽快だった。道端に飲み物を売る移動販売のお店があったので、座って2杯の冷たい石花粉を注文し、またある時は涼糕を注文した。石花粉を食べるときは、2匙の酢をかけて、さらに潰したピーナッツをかける。涼糕は、黒砂糖を熱して作ったシロップをかけて、2粒の酸っぱくて甘いレーズンものせて、セミが鳴いている中漂うスイカズラや蓮の香りも混ざって、それに舌鼓を打ちながら夏の暑い夕方を過ごしたのだ。

故郷を離れてすでに2年になった。「人は異郷に身を寄せているとき、節句になるといつにも増して家族が恋しくなる」(王維『九月九日憶山東兄弟』)という詩の一節が理解できるのはどんな時だろうか。中学校の時分、国語の練習帳を開いていた時だろうか。そうではなく、それはまだ真夜中とは言えないくらいの夜の時間に、どこに行くともわからない飛行機が空に一筋の白いラインを引きながら、最後には紺青の空に溶け込んでいく瞬間ではないだろうか。

故郷を離れてただ願うのは、家族が無事に過ごしていることであり、再会した時に「会っても私だとはわかるまい。顔は埃を被ったようであり、霜が降ったように髪は白くなってしまった」(蘇軾『江城子』)という事態にはならないことだけだ。

ここまでにしよう。故郷が恋しくなった。

中国語原文

我的家乡

我的家乡是湖北省随州市。离开家乡去上大学之前,我在那里已经生活了十八年。

小的时候,住在铁路家属区,就在火车站旁边,家属区的老人都管那里叫做“山上”。铁轨把它同外界隔开,那里便成了一个独立的生活圈。进城里有两个办法,一个是走北方的土路,一直走到大路上的公交站旁。另一个是走南边的天桥。天桥架在铁轨上方,能一直通到大街上。

从我爷爷转业开始,一家人就住在那里,直到妈妈去火车站上班,再到我的出生。

山上有医院,有小学,往天桥那边走有个大点的超市,还有几个小餐馆。其中的一个老板人很好,和奶奶聊天的时候,总会拿个小塑料杯,装十来颗螺蛳给我打牙祭。每到那个时候,我就一个人搬着个矮凳子,坐到马路旁,用牙签安安静静地挑螺蛳肉吃。望着路上来来往往的摩托车,也不介意车轮卷起的漫天尘土,只觉得嘴里的螺蛳肉辣得让人失去味觉。

我们家在顶楼,楼前有一个大操场,再往前就是山上的医院,爷爷以前就在那个医院里工作。我小时候身体不好,逢年过节都得待在那里。医院的后面有住院部,是个大院子,曲径通幽,杂七杂八的树木长得遮天蔽日。细碎的阳光穿过纵横交错的枝干洒落在衣服上,那些光斑曾无数次地出现在我的梦里。夏天里凉快,就是蚊子多。秋天叶子黄了,落得满院都是,脚踩在上面,发出窸窣的声响。医院门口有个直耸入云的水塔,不管是在家里,还是在学校,一眼就能望得到。那座水塔已经成了回忆里的一个钉子,将我的童年生生钉在那里,我便不至于随波漂流,也不会随着夜晚浅眠时火车悠扬的鸣笛远去。

后来,家里在城区买了房子,我们便搬离了那里。新家所处的地段好,方便又热闹,旁边就是我们上的小学。五六年级的时候,换了个新的语文老师,总让我们在第一节课之前去晨读。于是,大家就坐在花坛边,手里拿着书,聊昨晚看的电视剧的观后感。老师瞥一眼,再装模作样地读一两句。印象最深的是,学校有两个小卖部,我的一个小伙伴每天早上都去前门旁边的那个吃早餐。早餐就是一包方便面,再往里面打一个蛋。记得那时候,一包泡面才一块钱,加个蛋再加五毛钱。我每次看见他吃面,都馋的不行,但是爷爷不许吃泡面。

 

“不能吃泡面,没有营养。要读多喝牛奶,才能长得高。”

 

虽然我到现在都还只有一米五八,但这也不能怪牛奶。

读初中的时候,离学校不远的地方建了一座公园,名叫“神农公园”。随州市的旅游宣传标语是:“炎帝神农故里,编钟古乐之乡”。“神农”之意便立于此。公园里有一座巨大无比的神农雕像,神农端坐于田埂之上,双手捧着一把稻米,大概是“神农尝百草”的意思。总有几个老大爷在雕像的下面写毛笔字。拖把一般大的笔刷,蘸着清水,写在水泥地上。下笔遒劲有力,抑扬顿挫,虽只能保留几分钟,字迹便会随着水分的蒸发而消失,但过往行人,凡是看到的,无不拍手叫好。

有一年春天,奶奶带着我和表妹去公园里放风筝。我们拿着风筝,提着线,在立着雕像的广场上跑来跑去。那天没有风,风筝也没有飞起来。前两年奶奶离开了,她也就带我俩去过这么一次。飞不起来的风筝,被放进了书柜里,现在怕是已经找不到了。所幸,我也没再看见过有谁在那里放着风筝。 

再说说编钟。两年前,在电视上偶然看到《国家宝藏》的第一季,编钟便是湖北省博物馆展出的三件藏品之一。它的名气自不必说,就说说出土的那点事儿吧。编钟出土于曾侯乙古墓,古址现在是否还被保留着我不太清楚,故事倒是听过几个。

 

“我们当时几个人挖,先是些瓦砾碎片,后来挖出来的东西越来越好,我以前是学建筑出身的,就感觉这个情况有点不对劲,马上让他们停下了……”

 

家乡特别出名的美食不多,特产的蔬菜倒是有一些,比如泡泡青。不知是由于地理位置,亦或是气候土壤的问题,这种蔬菜只在随州生长。料理方法也很简单,直接下锅炒至断生,放点盐便可盛起。口感爽脆香甜,是我最喜欢吃的时令蔬菜之一。

高中对面,穿过马路,再钻几条小巷,就是那一片儿最有名的早餐店的聚集地。有粉面类:牛肉拉面,炸酱面,热干面,酸辣粉,海带粉;起锅时往碗里丢一把切得一般大小的葱花,酱油陈醋辣子自由组合,若是再烫几颗翠亮的小白菜,盖在面上,加个一块钱的表皮炸得焦黄的虎皮鸡蛋,便可焕发一整天的生机。还有面点类:小笼包,蒸饺,油条,皮薄馅儿大的馄饨,汤汁儿浓郁的水饺,金黄酥脆的面窝,外焦里嫩的韭菜盒子,沁着糖心的欢喜坨;酱香饼是现烤的,薄脆的几层面皮,刷上老板秘制的酱香料,白芝麻密密地铺满一层,咬下一口,肉汁在嘴里迸裂开来,即便吞进肚里,也依然唇齿留香,回味无穷。主食有了,还得配上些饮品,豆浆,米酒,黑米粥,以及甜口的豆腐脑,这才算得上一顿完整的早餐。上高中的时候是走读生,周六周日不用上早自习,就帮班上的几个住读生从校外带些早饭。大家排成一排,站在教室外面吃早餐,香味混着热气下了肚,这一天自然不会白过。

我是十月份来的日本。走之前的那个夏天,每个傍晚,妈妈都会骑着电动车,带我去白云湖边兜风。夏季的晚风多少都是有些热度的,但湖边吹来的风却很凉爽。路过路边卖饮料的移动摊贩,就坐下来,点两碗冰镇石花粉,有时是凉糕。吃石花粉时,会舀两勺白醋,面上撒一层花生碎;凉糕的话,就淋上一层红糖熬制的糖浆,也可以加两粒酸甜的葡萄干,混着蝉鸣和空气中弥漫的花露水的气味,度过夏季炎热的傍晚。

离家已有两年之久。“人在异乡为异客,每逢佳节倍思亲。”是什么时候理解的这句诗的意思呢?在初中的语文练习册上吗?不,是在某个夜还未深的夜里,在空中不知去往何处的飞机拉出一道白色尾线,最终融入沉寂的蔚蓝中。

出门在外,唯愿家里人平平安安,只求相聚之时,莫要“纵使相逢应不识,尘满面,鬓如霜”。

好了,不写了,想家了。

于婧睿