詞神・林夕の人生観

言葉を知る

初めに

歌を聴くとき、歌詞について考えたことありますか。

 音楽体験を持ち運ぶというのは日本発祥の素晴らしい文化ですが、これによって音楽が文字通り“耳邊風”となり、歌詞がメロディの一部となってしまったようにも思えます。CMで「小さな恋の歌」を口ずさんでいた新垣結衣は、まだ歌詞を“appreciate”していたように見えました(世代がバレますね)。

 或いは、よく知らない言語の歌詞なら読み解こうとするかもしれません。中学の英語の授業で、洋楽の歌詞とその日本語訳のプリントと睨めっこして、ぶつぶつ呟いた記憶がある人は多いでしょう。日本語なら意味を瞬時に理解できるので、邦楽は垂れ流しにできますが、外国語の音楽だと理解不能性を不快に感じて歌詞を調べようとしてしまうはずです。

そんな外国語の曲は、洋楽とK-POPが日本では主流ですが、中国語の曲、C-POPの地位はまだまだ低い状態です(こんなに近いのに)。ましてや標準中国語でもない広東語の曲は言うまでもありません。しかし、さすが文学の国というべきか、“文章経国”の言葉に恥じない、素晴らしい歌詞を持つ曲が広東ポップにはごろごろあります(第二次大戦後の混乱を避けて大陸の知識分子が香港に集ったこととの因果関係は否定できないと思われます)。

ここで広東ポップについての豆知識を一つ。広東語とマンダリンは大きく異なるとよく言われますが、まず助詞が異なります(“的”と“嘅”、“是”と“係”、“在”と“”など)。ところが、広東ポップの歌詞は管見の限り全てマンダリンの白話文に漢文要素(マンダリンではあまり使わない“何”、“亦”、“若”など)を少し加えたものです。なので、マンダリン話者に読ませるとだいぶ固くてポップスの歌詞のように思われないということがあるようです。そのようであるからこそ、格調高い(広東語で“高雅”)歌詞にできると思われます。

そんなC-POP、広東ポップにおいて、誰もが知る作詞家(大部分の歌手より有名)が、“林夕”のペンネームを持つ梁偉文(Albert Leung)です。異例の速さで歌詞を書き、なおかつヒット作も多く作り出してきた彼は、還暦に近い今でも活躍しています。そんな彼についたニックネームが“詞神”。今回は詞神が書いた作品のほんの一部を掘り下げます。

細水長流

細い流れは長く続く。平凡な幸せは長続きするといった意味でしょうか。彼がこの言葉を用いた歌詞に以下の二つがあります。

 等到風景都看透 也許你會 陪我看細水長流

——『紅豆』

自少聽得多愛是細水長流 吞聲忍氣夠 只能包庇延續你的下流

——『忍』

  一つ目の引用の意味は「(あなたがきれいな)景色を全て見切ったら、もしかしたらあなたは、私と一緒に水が細く長く流れるのを見てくれるかもしれない(共に平凡な毎日を送ってくれるかもしれない)」二つ目は「幼い時から愛は細水長流であることを聞いてきたから、(多くの幸せを求めてはいけないと思って)我慢してきたけど、そんなのは、あなたが下劣な行為を続けるのを庇うだけだった」となるでしょうか。“下流”に川の下流と下劣な行為という二つの意味があり、特に前者は“細水長流”と対応しています。巧みすぎてため息がこぼれますね。『紅豆』は相手が戻ってくるのを待つ曲、『忍』は相手の扱いに耐えられなくなる曲ですが、同じ“細水長流”でも、このように正反対の文脈で使って見せるところに、林夕のテクニックの高さを窺えるのではないでしょうか。

理科?

そんなロマンスたっぷりの曲だけではありません。林夕及び彼の弟子である林若寧が書いた歌詞には、理科用語がちらほら出てきます。解剖とか、試管(試験管)とか、放大鏡(拡大鏡)とか。(一つ目の引用は林夕、二つ目は林若寧による。)

何不把悲哀感覺假設是來自你虛構  試管裏找不到它染汚眼眸 

 ——『富士山下』

如果將戀愛去解剖 對他的感覺有多少是虛構 用放大鏡分析去留 不需理由  

——『說分手』

一つ目の引用の意味は「悲しい気持ちは身から出た虚構で、試験管に通すと見つからないものだ」、二つ目は「恋愛を解剖してみると、彼に対する気持ちはどれぐらいが虚構なのだろうか。拡大鏡ではっきり見定めて続けるか分かれるかをすっぱり決め、それにごちゃごちゃした理屈はいらない」となります。

理系用語を用いた意図が見えてきたでしょうか?好きも悲しみも、畢竟虚構であることを言いたいために、客観性のイメージが強い理系の動作を交えたと推察されます。

林夕
photo by ハル

過客

虚構に関連して、人生を旅に例えた作品があります。この発想は林夕特有のものではなく、松尾芭蕉『奥の細道』の有名な「月日は百代の過客にして……」、もっと遡れば李白『春夜宴桃花園序』の「夫天地者萬物之逆旅也…」に行き着きます。この伝統をポップスに持ち込んだ点に、彼の功績があるのではないでしょうか。

別盪失太早 旅遊有太多勝地

——『給自己的情書』

如果對於明天沒有要求 牽牽手就像旅遊 成千上萬個門口 總有一個人要先走

——『十年』

  一つ目は「呆然とするにはまだ早い、人生の旅路には観光地が多すぎるのだから」、二つ目は「明日に何も望まなければ、手を繋ぐことは旅行のようだ。幾千万の扉 結局どちらか一人が先に去っていく。」という意味です。2曲とも失恋を歌った曲ですが、この二つから感じ取られるように、林夕は人間関係を出会っては別れ、留めがたいものと捉えているようです。

林夕
photo by ハル

仏教

 もしあなたが仏教らしいと感じたなら、それは間違ってはいないでしょう。林夕は仏教的な歌詞を多く書きました。大失恋を機に仏教に傾倒したという逸話があります。日本の貴族のようですね。ここでは一曲だけ取り上げたいと思います。

人存在只想為了求證 曾留下追憶裡的情景 但萬法好比電光的幻影 入靜了心境掛念難道靠眼睛

——『電光幻影』

「人は生きていて何かの存在を証明したいために行動する。かつて追憶の中の情景を残した。けれども全ての存在は電光石火の幻影のようなもの。この道理が心中の念願を取り払ってしまえば、その証明は目によってしなければならないのか。」訳すとこんな感じになります。“求證”は数学の「〜を証明せよ」に使われる言葉です。客観的な実在性を追い求めてしまう人間の性が表れていますね。日本語で試せば、小難しくて大衆に受け入れられないような歌詞になりそうです。この曲は聴いてみるとわかるように、軽快ながらしっとりした曲になっており、難しさを感じさせません。これも林夕の力量ですね。

終わりに

 今回は“細水長流”、“理科”、“過客”、“仏教”の点から林夕の作品をほんの少しだけ紹介しました。彼は数十年前から歌詞を書いていますので、作品量は膨大です。違った点から分析してみるのも面白いでしょう。歌手ごとに異なる傾向の歌詞を書いてきたのかもしれません。もちろん、彼が歌詞を書いた曲を楽しんでみてください。

 韻を踏んでいることに気づいたあなた、鋭いです。これは広東ポップ全体の特徴です。

今回取り上げた曲

 陳奕迅(Eason Chan)

    ——『富士山下』、『十年』

 王菲(Faye Wong)

    ——『紅豆』、『給自己的情書』

 林欣彤(Mag Lam)

    ——『忍』

 連詩雅(Shiga Lin)

    ——『說分手』

 楊千(Miriam Yeung)

    ——『電光幻影』

※『十年』と『紅豆』のみがマンダリン。それぞれタイトル・歌詞の異なる広東語版あり。『富士山下』のマンダリン版も同様。

 

林嘉元