おしゃべりで日中をつなぐ

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外国に旅行やビジネスで行ったことがある人は多いだろうが、海外でアナウンサーをした人は少ないだろう。今回、我々は北京の国際放送局でご活躍された高橋恵子さん(恵子先生)とお会いすることができた。中国と特別の交わりがなかった恵子先生が、どのような経緯で93年〜95年、2011年〜17年の2回北京へと渡ったのか、どのような生活をされてきたのか、じっくりお話を伺った。

<北京放送と出会うまで>

本日はインタビューをお受けいただいてありがとうございます。よろしくお願いいたします。高橋さんのご出身の沼津でインタビューができて、嬉しいです。

恵子先生:よろしくお願いします。恵子先生って呼んでくださいね。

分かりました笑。それでは恵子先生、あらためてよろしくお願いします。恵子先生は、北京の国際放送局にお勤めの経験があるとのことでしたが、北京に渡る前は日本でアナウンサーをされていたんですか?

恵:はい。大学在学中にNHK静岡のラジオ番組でおしゃべりの仕事を始めました。その後、本格的にアナウンサーを目指すのですが、中々局アナ試験に合格できませんでした。20局近くの放送局を受験し、最終的に大学卒業と同時に群馬テレビに入社しました。14カ月勤務して、たまたま東京に遊びに来ていた時に受けたFM東京の朝の番組オーディションに合格し、放送局を退社してフリーのアナウンサーになりました。一時期、アナウンサー事務所に所属していましたが、「この業界って30歳を過ぎると、仕事が減るよ」と言われ、ずっとアナウンサーの仕事を続けるにはどうしたらいいかと考えて、外国語を身に着けようと思いました。

恵子先生は、それまで中国圏と関わりがあったわけではなさそうですが、数ある言語の中から中国語を学ぼうと思われたきっかけはあったんですか?

恵:先ず、思い浮かんだのは英語ですが、当時から流暢な人はいたし、オリンピックの関係でスペイン語・韓国語などが注目されていましたが、24年で仕事で使えるレベルに到達できるか。そんな時に知り合いの人が「世界でネイティブが話す言葉で一番多いのは中国語だよ」と言うのを聞いて、中国語を学ぶことにしました。アナウンサーの仕事が忙しい時期でしたけど、駅から近いという理由で、新橋にある「朝日中国文化学院」という学校に行きました。夜間の2年コースに入ったんですけど、2年たっても全然話せない気がして。結局、2年生を2回やって合計3年学びました。

恵:私が学び始める前の年の89年に天安門事件がありました。国際社会は中国に対して制裁をするなど非難轟々でしたが、私自身それまで中国との接点がなかったので、先入観や特別な思いはなく、中国語の学校に通いました。むしろ中国語を学ぶ人が減った時期で、セミプライベートレッスンのような感じで、中身の濃い授業を受けられました。この時期に中国語を学んだことで、今になって「先見の明があったね」と言われますが、そう言うわけでもないんですけど笑。

なるほど、最初はスキルアップのためだったんですね。そこから、どのような経緯で北京放送に入られたのですか?当時の中国に行くというのは、今に比べてハードルが高そうなイメージはありますが。

恵:私がFM富士で朝の番組のパーソナリティをしていた時、北京放送から山梨に研修に来ていた中国人アナウンサーが番組に見学に来たんです。そこで、彼女は「北京に来る機会があれば連絡してください」と言ってくれました。その時、初めて北京放送という存在を意識しましたし、この時は全く北京で働くつもりはありませんでした。

恵:その後、中国語を学んでいた学校が北京ツアーを組んで、それに参加申し込みをしましたが、参加者が足りずツアーは中止になりました。でも、もう休みも取ったし、せっかくだから同級生と二人で行くことにしたんです。当時はネットもないし、個人旅行のハードルが高くて、空港から市内に行く方法もわからない。そこで、FM富士で出会ったあの人に連絡してみよう!と思って、連絡したら、全部手配してくれました。その北京旅行の最終日に、「北京放送を見学してみます?」って言われて、軽い気持ちで見学し上司の方と名刺交換しました。そしたら、しばらくして「日本語部で働きませんか?」って電話がありました。

まさかそんな展開になるとは思いませんね!日本を飛び出して、北京で働くことに迷いはありませんでしたか?

恵:最初はお断りしたというか、中国で働くという選択肢が全くなかったので「今は行けません」と答えました。そうしたら年度の変わり目にまたお誘いがあり、ここで断ると次はないだろうし、行ってみるかと思って行ってみました。そして93年の5月から北京放送日本語部で働き始めました。

今回インタビューを行った沼津御用邸記念公園

<中国での生活>

今でこそ、成田からたくさんの飛行機が北京に飛んでいますが、当時はそこまで飛んでいない感じですか?

恵:LCCとかはないので、JALか中国民航(編集注:民航は当時、中国の民間向けの航空事業を行っていた)2択。民航の方が、JALより4,5万安かったので、民航で行きました。当時はジェンダーフリーっていう概念もなかったのですが、CAさんがみんなズボンを履いていて、それが印象的だったかな。機内食は、美味しいと言う記憶はないですね笑。

恵:北京に着いたのは夜でした。空港も空港の外も最初の印象は、なんだか暗いなあというものでした。迎えに来てくれた方いわく、「今日はメーデーの前日だから街が明るくなっていますね」と言うのですが、「これで?」と思うほど、日本に較べて暗かったんです。

北京に行く上で、どのようなものを、どれくらいの量もっていきましたか?

恵:手荷物以外に段ボール4箱くらい送りました。北京は寒いだろうと思って、たくさん暖かい衣類を持って行きましたが、沼津や東京と比べ物にならないほど寒くて、全然役に立ちませんでした笑。あとは、辞書や資料かな。今と違ってインターネットもないし、北京で辞書や資料が探せるか不安だったので。

恵:なるほど、だいぶイメージしやすくなりました。ありがとうございます。北京のお住まいはどのようなところだったんですか?90年代当時の社会が全くイメージつかないのですが

恵:北京放送が用意してくれた外国人職員専用住宅、「専家楼」というのがあって、いろいろな国の人が住んでいるんですけど、私もそこに住みました。管理人さんやお手伝いさんのチームがいて、ベッドのシーツ交換からトイレの詰まり修理までなんでも対応してくれました。住人の外国人同士も交流があって、クリスマスをはじめとした各国のお祝いをするんですけど、面白かったのは花祭り(編集注:お釈迦さまの誕生日とされる日)かな。ミャンマーとスリランカではどうやら日にちが異なるようで、花祭りに誘われてお祝いしたと思ったら、また別の人から別の日に花祭りに誘われるという感じ笑。

とても文化交流になりますね笑。街や人の様子はどのような感じでしたか?

恵:道は舗装されていないところも多かったかな。雨が降ると大きな水たまりができていました。日本で中国語を勉強してはいたけど、全然聞き取れませんでした。スピードが違うし、ボキャブラリーも足りない。でも、お互いに漢字を書くとなんとなく最低限のことは通じるし、困った時は誰かが助けてくれたので、特別困ることはなかったと思います。日本に手紙を出そうと郵便局に行って、窓口に並んでいた時、他の人が次々と割り込んでくる中、全然知らない人が「あんた切手買いたいの?」とか声かけてくれて、私の代わりに買ってくれたこともありました。

恵:あと、お給料は日本円にすると2万円でした!日給じゃなくて月給ね。でも、物価もすごく安かったんです。社員食堂で140-60円とか。マクドナルドは、おしゃれで高価な食べ物って感じで、お給料日にスタッフと昼食にでかけました。値段は45倍くらいはしたかな。ピザハットなんかは、「クリスマスに奮発して恋人と行く」って感じ。私はお給料を人民元でもらっていました。当時、外貨から両替した兌換券専用の外貨ショップみたいなのもあって、普通は人民元では買い物できないのですが、私は「専門家手帳」という身分証明書のようなものを持っていて、これを見せると人民元でも外貨ショップで買い物ができました。多分、同じ1元でも価値は違ったみたいです。

北京放送では、実際にどのようなお仕事をされていましたか?

恵:私は日本語部の所属で、日本語と番組制作の指導みたいな感じです。放送は日本語ですし、同僚との会話も日本語でと言われました。私と会話することで日常の日本語を学ぶためだと思います。番組制作も当時はアナログなので、編集も大変でした。番組の時間調整や事前の準備の大切さみたいなことも教えたかな。

<ゴミ問題について>

日本では一部の自治体を除いて、ゴミを出す時には指定のゴミ袋を買い、家の前などに出しておくと、ゴミ収集車が回収してくれますよね。恵子先生の中国でのゴミの出し方は、どのような感じでした?分別とかってします?

恵:私がいた北京だと、指定のゴミ袋はないですね。スーパーで黒い袋などは売っていますよ。マンションや団地などに決められたゴミ収集所があって、そこに毎日ゴミを出すことができます。分別は生ごみとそれ以外だったかな。2011年から暮らした時は古紙とペットボトルは、業者を呼ぶと回収してくれて、少しですがお金をもらえました。ゆるく分別回収が始まっていた感じです。

恵:帰国後の2019年に上海市で、厳しいゴミ分別が始まり話題になりました。4種類に分別するんですけど、湿ったゴミと乾いたゴミ。リサイクルゴミと危険物みたいです。日本だと可燃と不燃かを、湿ったと乾いたで区別する。どうも湿ったは、ブタが食べてくれるかどうかみたいです。これに違反すると罰金みたいで、外国人と言えども容赦なく、駐在員の人が嘆いてました笑。

恵:2023年に再び上海に来ましたが、この3年で「ゴミの分別」に変化があったようです。2019年、マンションなど集合住宅のゴミ収集所には4種類のゴミ入れが置かれ、出す時間も朝と夕方で徹底するような貼り紙が各所に見られました。…が、これが無くなっていました!「何故?」と地元の人に尋ねたところ「今まで分別せずに出されていたゴミを、分別する仕事をしていた人の仕事がなくなったので、ゴミの分別などをしていた人たちから仕事を奪うな!とクレームがあったのでは」との回答でした。

恵:日本と違い、中国はまだまだ労働人口が不足していません。社会主義の国として、「働かざる者、食うべからず=働けば食べられる」訳ですから、補助金や生活保護を出す前に、先ず働いてもらう、ということで仕事を与える=作ることが大切なんだと思います。そして、独裁政治のように語られますが、ちゃんと庶民の声を聞いているんだなとも思いました。

日本と同様に自治体や地域によって、ゴミの出し方も異なるんですね。
90年代と2010年代で、ゴミの出し方や意識は変わったのでしょうか?

恵:90年代に北京で暮らした時、昼のお弁当の残りを三角コーナーなどに捨てず流しにそのまま捨てていたり、列車やタクシーの窓からゴミを捨てている人がいてびっくりしました。同僚に理由を聞くと、「ゴミを片付ける仕事の人がいる」とのことで、カルチャーショックというよりは、そのような考え方もあるのかという思いでした。2010年代になるとずいぶんと変わっていましたけど。

粗大ゴミも、収集所に持っていかないといけないのですか?

恵:粗大ゴミはどうかなそもそも粗大ゴミっていう概念がない気がします。賃貸は家具付きがほとんどで、自分で家具を揃えないので私は粗大ごみを出した記憶がない笑。

なるほどですね。近年、海洋プラスチックごみも問題として注目されていますが、海洋ゴミのことが、テレビなどで話題にあがることってありましたか?

恵:もちろん、海洋ゴミの問題は、たぶん政府としても取り組んでいると思いますが、中国って一言で言っても、内陸部と沿岸部で全然違いますよね。今は、まだテレビやネットが発達していて映像などで疑似体験できますけど、少し前までは内陸部の人は、一生海を見たことがないってこともありえたわけですよ。そうなると、「海洋ゴミ」っていう概念が広まるかどうかっていうのは、四方を海に囲まれている私たち島国の人の感覚とは違うかもしれないですね。

確かに、それは全然考えたことなかったです!

イベントの司会を行う恵子先生、ハキハキとテンポの良い進行が印象的だった。

<2度目の訪中>

恵子先生はその後、95年に日本に帰国されてからは、アナウンサーの仕事の傍ら中国語や中国文化に関する講座を精力的に開かれている。その後、再び北京放送より誘いを受け、再び北京放送のアナウンサーを務めることになる。

2011年より再び北京に戻られたようですが、そこではどのようなことをされていましたか?

恵:95年の帰国後、北京オリンピックの前に一度、北京放送局が名称変更したCRI(中国国際放送局)から誘われていたのですが、その時は日本での仕事の都合がつかずに、断りました。2011年からと誘われた時は、自分も50歳になっていて還暦と言う1つの目標まであと10年。全力疾走する最後の1周かなと思い、再び北京で働くことにしました。

恵:行ってみると、街並みは様変わりしていました。再びというより新たな場所に来たようでした。90年代の北京は過去の日本を見ているようでしたが、2011年の北京は日本の未来のようでした。道路や建物、交通機関といったインフラは整備されているし、(アクセス制限のある)インターネット環境も日本で言うほど不便ではない。インターネット規制があることはあるけど、(規制の)壁越えソフトや対応方法はありますから笑。

恵:中国のマラソン大会もたくさん走りました。社会が豊かになってきて、マラソン人口も増えてきていることを肌で感じます。人気の大会参加は抽選も珍しくありません。完走してもらえるTシャツやタオルも中国製ではなくベトナム製になっていたり、大会運営のオペレーションも日本以上にスムーズになったりしたところもあります。社会の成熟というか、市民生活が豊かになってきているのがうかがえます。もちろん、地方の大会とかはまだまだだけど、あれだけ広いとボトム層にまで浸透するのは時間がかかるかな。

 

そんな恵子先生は、還暦でフルマラソンを4時間切る=サブ4が目標だったようですが、コロナ禍で大会がなくなり、62歳で3時間58分で完走、念願がかなったそうだ。90年代の北京での日常生活を語る恵子先生は、どこか楽しそうだった。急速に変化する社会を肌で感じられた恵子先生のパワフルさ、バイタリティーを見習っていきたい。

 

 

qing liu