私には、今年96歳になる曽祖母がいる。私が小さな頃から、会う度に様々な昔の話を聞かせてくれる。日本がかつて戦争をしていて、その時に植民地を持っていたと言うことを自らの体験を踏まえ、初めて教えてくれたのも曽祖母であった。
曽祖母は戦時中、旧満州の牡丹江(現在の黒竜江省牡丹江市)に住んでいた。父親の仕事の関係で、一家で旧満州に渡り、終戦後、日本に引き揚げてきた。曽祖母の一家は一種の特権階級で旧満州に渡っていたと言う特徴的な一面があり、私たちが想像する旧満州のイメージとは少し異なる経験をしている。しかし、曽祖母も旧満州で数多くの困難に直面してきた。ソ連の侵攻開始以降、住んでいた牡丹江を離れ、新京(長春)、ハルビン、四平街(四平)と疎開先を転々とし、やっとの思いで兄弟を引き連れ日本へ帰ってきた。
2年前にはなるが、高一の現代文の戦争をテーマにした課題で、曽祖母に戦時中のことをインタビューし、それを作文にまとめた。戦争体験者がますます減少してゆく現在、曽祖母の戦時中の経験は大変貴重なものとなっている。今回はそのインタビューをここに記したい。
(インタビュー・執筆:中川)
インタビューの前にまずは曽祖母のプロフィールを紹介したい。
曽祖母プロフィール
名前 山下(旧姓:長峰)澄江
出身地 東京
現在の居住地 山口県山陽小野田市
生年月日 1926(大正15)年4月30日
筆者の母方の祖母の母(中国語で言うところの太姥姥)
インタビュー 令和2(2020)年2月3日実施
※おことわり
今回のインタビューは、質問順とインタビュアーの発言以外はインタビュー内容のリアリティーを考慮し、ほとんど修正せず、そのまま載せております。方言などもそのままにしているため読みづらい箇所などもございますが、何卒ご了承ください。また、インタビュー内では満年齢と数え年が混在しているため、出てくる年齢はあくまでも目安としてお考え下さい。
――満州に行ったのは何歳のとき?
17歳、まだ学校におったときだから17だわ。そして、学校卒業してから、19から満鉄に勤めて、そんで終戦になったんだから。
――満鉄に勤めてたの?
満州鉄道、約して満鉄よね。結局日本が作ったんだけどね。満鉄で交換手してた。電話の交換手、だから、全部わかったね、満州じゅうの(おそらく鉄道のこと・・・)席によって違うからね。そんで、2年ぐらいおったかな。
――満州にはお父さんとお母さんと兄弟たちで行ったの?
うん、7人暮らしだった。5人の子どもとね、その5人の子どもも私1人だけが残って、あとみんな(今では)全滅、そのうち長峰家は絶えます(笑)
――満州には特権階級で行ってたんでしょ?
特権ていうのは父の赴任先で、商工省に勤めてたけね。んで、父がよう軍との折衝行ったりなんかしてね、あの、司法省やら、商工省なんてのはね、司法省てのは今の市役所よね、商工省てのは今の経産省なん。その両方の要望を持って軍に掛け合いに行ったりようしよったけ、軍の人がまあ、将校以上がもう、休みになるとみんな、隊がみんな違うから、休みの時が。いっつもきてたよ。
――牡丹江(満州)に住んでいたときは、どんな感じの家に住んでいたの?
煉瓦建の家。大きかったよ、だってこんな大きな、ストーブって言うとアレだけど、ペチカっていうの。聞いたことあるでしょう、あのロシア語のペチカって歌が、あれと同し。もの凄い暖かいんよ、そのかわり、粉炭を水で固めちゃ、全部平らになるまでにして、コークスになっちゃって。それから灰かけて、ガスがなくなったら上の煙突のところも閉めちゃう、下も閉めちゃう。そしたら、一昼夜あったかいんだから。25度からあるんよね。だから、浴衣でおったよ。(後は)あの、朝鮮の新義州のリンゴが甘くて美味しいの、こんなに小さくてね。お風呂入る前にストーブの横置いとくのよ、そいで、出て来ると丁度半分溶けてね、アイスクリームみたいなの、美味しかったよ。あそこのこんな小っちゃいリンゴだけど本当甘くて、美味しい。パサパサしたところ無くってね、本当美味しかった。
――なるほど、それで、戦争が満州でも始まって、ハルビンに疎開したんだよね?
ハルビンまで、新香坊って言ってね、ハルビンの奥の、そこに1ヶ月ちょっとおったよね。1ヶ月半くらいおった。新香坊ってあの農業やっている人、日本人の農業見習いみたいなことをやっていた人がいた大きなところだった。そこでね、みんな厄介になってね、で、子どもたちがバタバタ死ぬんよね。ほいで、みんな人魂見たって言うからね、なんで私だけ見ないのかな?つって、夜薄暗くなると門口立ってジーッと30分も40分も見たけど、見たことない。みんな誰も、「まあ、青い顔してどうしたの?」つったら、「人魂見た」って言いよったがね。不思議はなかった。
――ハルビンの次はどこへ行ったの?
ハルビンに行って、(その後)新京(現在の吉林省長春市)におじさんが勤めてたからね、重役で。んで、その新京を目指して行ったら、おじさんの家、疎開してた。四平街(現在の吉林省四平市)って言うところに、二つぐらい向こうの駅だったがね、下ったところの。そこ訪ねて行って、おじさんの家、1ヶ月ぐらいお世話になったかな。そこで母親も死んでしまったし。
――旦那さんとは満州で知り合ったんでしょ?
あの、おじの家にいるときに結婚してね。そして、妹と弟と一緒に帰ってきたわけ。
――弟さんはまだ結構小さかったんだよね?
うん、中学一年だったから。一年でね、まだアイツも日本刀担いでフラフラして歩ってたくらいだから。
――どこから引き揚げ船に乗ったの?(葫蘆島から乗ったらしいけど、質問が通じなかった)
だから、とにかく最終引き揚げ目標は日本よね。行かれる所へ少しでも下ってきたんだから。(住んでた牡丹江は)ロシアが近かったから、ロシアの車の、装甲車やなんかの音がゴンゴンゴンゴン聞こえよったんだから。それで、新京行ったら花園小学校ってところ収容されて、そこロシア兵の宿舎になっててね、私たちが入ってチェンジだったの。それでもまだ、終戦してなかったよ。それで今度は、新香坊ってところ行ったら、そこが農場だったわけよね。いろんな物作って、農業の人がいてね。
――いつ日本に帰ったの?
それは昭和21年、21年の5月。島根の田舎に引き揚げたけど、田舎じゃ仕事がないから、そして、徴用で主人の兄が炭鉱におったから、事務で。んで、そこに世話してもらって。だけど事務だったらやっぱしね、給料の格差がすごいんやね、だから結局、坑内入って働いてくれたんよね。
この炭鉱での仕事のため曽祖母は島根県出身の夫と共に山口県の小野田に移り、その後、昭和22年には、長女節子(筆者の祖母)が誕生、3人の子宝に恵まれた。曽祖母の人生はこの後もまだまだ続き、この後も数多くの苦労に見舞われるが、戦争体験はここまでである。ただ、昔から筆者がよく聞いていた、このインタビューには無い旧満州時代のエピソードがいくつかある。それをいくつか紹介したい。
曽祖母エピソード集
エピソード1
胸のワッペンにA型と書いていたけど実は…
戦時中、胸に名前、住所、血液型などを書いたワッペンを貼っていたのはドラマなどでもよく見る光景であり、多くの人が知っていることであろう。曽祖母も戦争を乗り越えた1人であり、胸にこのようなワッペンをつけていた。曽祖母は当時A型と書かれたワッペンをつけており、周りにも自分はA型だと伝えていたが、戦後日本に帰ってきて人間ドックを受けてみると結果はB型で、戦争が終わって初めて本当の血液型がわかった。旧満州では多くの人が怪我をしたり、病気に罹ったりして、曽祖母の母も病気で亡くなった1人である。もしも曽祖母が旧満州で病気に罹ったり、怪我をしたりしていたら、筆者も筆者の母も祖母も今存在していないかもしれない。
エピソード2
疎開先でソ連兵にしてもらったこと…
1945年8月、ソ連が条約と国境を破り、満州に侵攻してきて、多くの日本人がこのソ連兵たちに泣かされた。しかし曽祖母の場合、疎開先で一番最初は日本兵たちが曽祖母たちを守っていたが、この日本兵たちがソ連へ連れて行かれるのと交代でソ連兵が曽祖母たちを守るようになった。このソ連兵たちは、曽祖母たち日本人が喜ぶだろうと浪花節のレコードをかけてあげていたという。しかし、曽祖母いわく戦争に負けた日本人たちはロシア語を学ぶ気などさらさら無く、浪花節をかけていたソ連兵は不思議がっていたという。一種の特権階級で旧満州に渡っており、身分が保障されていた曽祖母ならではのエピソードである。
エピソード3
実は戦中に中国語を習ったことが…
戦時中、英語は敵性語として学習及び使用が大きく制限された。曽祖母の場合、女学校に進学後、英語の授業が開始されたが、わずか数日でなくなってしまった。そしてなくなった英語の代わりに始まったのが中国語の授業である。また、曽祖母は旧満州で生活していたため、生活に必要な中国語を日々の生活の中で覚えたという。当時の中国語に拼音はなく、しかも曽祖母の暮らしていた中国東北地方の訛りは日本人が苦手とする発音の兒(アール)化音や巻き舌音が強く、喋り方も速いという特徴がある。そのような環境で、発音が最も重要な言語である中国語を習得したのだから中国語学習者としては脱帽である。多くの日本人が日本人を意味する日本人(Rìběnrén)の発音でつまずくが、筆者は曽祖母からこの東北仕込みのリズムと発音をよく聞かされていたため、高二の中国語の初回の授業でこの発音をした際、同じ東北地方の遼寧省瀋陽市出身の先生によく褒められた記憶がある。曽祖母は他にも牡丹江(mǔdānjiāng)などの中国語も教えてくれた。
エピソード4
葫蘆島から引き揚げ時に乗ったのは…
葫蘆島(現在の遼寧省葫蘆島市)は旧満州からの引き揚げ者を送り出す中心となった港としてその名が知られている。おそらく戦時中に旧満州から引き揚げてきた人に話を聞いたら必ず葫蘆島の名が出てくることだろう。曽祖母もそこから日本へ帰ってきた。その時に乗ったのはなんと、ボロボロの貨物船であったという。旧満州では疎開先を転々とし、4人の妹と弟たちを引き連れ、荒れる海をボロボロの貨物船で渡ってきたというのだから苦労は相当なものであっただろう。しかし曽祖母はよく、旧満州に行った時よりも、ボロボロの貨物船で帰ってきた時の方が楽しかったと語る。
エピソード5
何だかんだで小さな巨人…
曽祖母はとにかく背が低い、今では腰も曲がり、ますます背は低くなっているが、腰があまり曲がってなかった70代80代の頃でも背が低かった。昔はもうちょっと高かったと曽祖母は言うが、おそらく150センチも無い。しかしそんな小柄な見た目からは想像できないほどの、数多くの大きな困難を乗り越えてきた。母親を亡くし、父親をシベリアに連れて行かれながらも自分含め5人の兄弟を引き連れ日本へ帰ってきた。帰ってきたのちも苦労は続き、まだ幼い兄弟たちの面倒を見たり、長女節子が小学校3年生の頃には夫と死別し、以後女手一つで3人の子どもを育て上げた。そして今では、数多くの孫、ひ孫に囲まれ、さらには昨年玄孫も誕生した。数多くの困難を乗り越え、長い人生をたくましく生きる姿はさながら「小さな巨人」である
最後に
小さな頃から大好きな曽祖母について書くことが出来、本当に光栄だった。昔から曽祖母の話はよく聞いており、その貴重さはいつも感じていたが、改めてこう書き起こしてみると、曽祖母がこんなにも大きく、貴重な経験をしているということに気付かされた。戦争がますます遠くなってゆく今、形にしてずっと残して行きたいと強く願った。
これらの曽祖母のインタビューとエピソードは、教科書には無い1人の人間の貴重なエピソードとして、国境を越え、日本人にとっても中国人にとっても、知って後世に残してゆくべき大切な記憶であろう。戦争というと暗い話や日中では軋轢のもととなってしまう話も多々ある。しかし、曽祖母の旧満州での経験には日中が国家同士でなく1人の人間同士の立場で共に歩むためのヒントが必ず得られるはずである。
協力:山下澄江(曽祖母)、山田節子(曽祖母の長女)、山下和枝(曽祖母の次女)