巷にたくさんの中華料理店がある中、エンジニアと中華料理店経営という二足の草鞋という一風変わったオーナーの営むお店があるという。今回我々は中華街のある横浜にほど近い、JR関内駅から徒歩5分ほどの中国東北料理のお店を訪問した。お店の名前は「鉄鍋炖 関内」。オーナーの王さんにご出身の東北地方のことや日本に来られた経緯などを伺った。
王さんの過去:幼少期から青年期
ー王さん今日はインタビューを受けていただきありがとうございます。それでは早速ですが、インタビューに移らせていただきます。王さんはこちら(関内)で中国東北料理のお店を開かれていますが、王さん自身ご出身はどちらでしょうか?
王さん:私は(中国)東北の遼寧省、東北三省の中でも南の方ですね。
ー実は私(張)の両親が瀋陽出身なんですよ!※瀋陽:中国東北地方の遼寧省の省都
王さん:同じようなところ出身の方なんですね。車で30分くらいです。生まれた地方によって方言やアクセントがあるので、中国語を話すときっと(私と)同じ発音でしょうね。
ー王さんはどのような町・ご家庭で幼少期を過ごされましたか?
王さん:私が生まれ育った1960年代、70年代というのは中国にとってかなり貧しい時期でした。お肉は(配給制で)月に一人0.15kgもないぐらい。家族合わせても1kgいくかいかないかぐらいで、お肉なんてほとんど食べられませんでしたよ。お肉だけじゃなくお米も貴重でした。当時はお米の代わりにトウモロコシを毎日食べていました。そのトウモロコシが今ではこの店の名物料理に使われています、面白いですよね。当時は毎日食べても飽きないように、たくさん工夫したんですよ。例えば、トウモロコシの生地を薄く延ばして焼くと、パリパリのお煎餅みたいになります。焼かずに生地で野菜を包んで食べたりもしました。多少差はあれ中国全土がそのような状況の当時、私は4人兄弟の長男だったのですが、子供4人を養う両親は大変で、家庭は貧しかったです。
王さん:あまり綺麗な話ではないのですが、当時は水洗のトイレなんて当然なく、普段は家の外に共用のトイレがあったのですが、冬の夜には寒くて外に出られないものですから、家の中でバケツに溜めて次の日外に捨てに行ったりしていましたね。あと最近は食べ物に賞味期限とか書いてありますけど、私の子供のころはそんなもの関係ありませんでしたよ笑。トウモロコシのお餅だって、色が変なところをとってしまえば食べられますし、お肉もちょっと匂いがおかしくてもちゃんと処理すれば食べられました。いまでもそういうもったいないと思うせいか、家の冷蔵庫の残ったものを全部私が食べるんですよ~笑。紙だってもったいないので、趣味の習字で書いた紙も裏紙に使ったりするんですよ。たしかに今は100円でたくさん紙を買えますが、安易に手に入るからむしろ大事にしないことが多いですよね。皆さんのような今の人や私の子供たちは、そんな(物の足りない)生活を全く知らないですよね。
ー当時を思い出す料理・象徴的な食べ物はありますか?
王さん:たくさんありますね。当時は子供たちも家庭の事情を分かっていたので、家事を小学生くらいのころから手伝ったりしていました。朝は、炉に火をつけることから始まります。火がないと料理ができませんからね。でもお昼間は炉のある部屋に鍵がかかってるんですね、両親が仕事でいないので。ある日親がいないときにどうしてもお腹がすいて、何か食べたくなった時がありました。そこで私は長ネギを食べたんですよ笑それも生で!こんなことがたくさんありました。
ー小さいころの将来の夢はありましたか?
王さん:二つありました。小学生のころ、当時毛沢東が中国全体で愛されていました。私は毛主席(毛沢東)について少し詳しかったので、彼の息子の一人が朝鮮戦争でなくなったことや、もう一人は精神病に罹って跡を継げないことを知っていました。ほんの半年くらいの間ですが、自分が毛沢東の子供になりたい、養子になりたいと子供心で思ったことがあります。笑
王さん:もうひとつは中学生になってからです。当時の中国は入試制度などがしっかり整備されていたわけではありませんし、情報もあまり手に入らなかったので、自分の将来について考えてもはっきり先が見えなかったものです。それでも大学に行けば今よりいい暮らしができることはわかっていましたね。それで私は特に電気や機械関係の仕事に就きたいと思いました。というのも当時は今の半導体ではなくブラウン管の時代でしたが、家にあるラジオを自分でいじったり、修理したりしていたのでそういうものに馴染みがあったんですね。
ー中学生のころからラジオを直したりされていたんですね。私たちはまったく機械の中身がどうなっているか、どうしたら直せるかなんて知らずに生活してきたので…
王さん:そうですよね、もちろんわかりませんよね。その頃は、同級生のお兄さんがよくラジオを作っていたので、その側で染められて、自分も作り始めました。
ーでは大学ではそういった機械関係のことを学ばれたんですか?
王さん:そうですね、でも一度目は師範大学、ようは先生になるための専門学校に入ったんですよ。でも当時学校の先生の待遇というのはあまりよくなかったものですから、もう一年頑張って浪人して、80年に大学に入って電機・工学の学部に行きました。80年代当時、大学の電機・工学系の学部というのは一番人気でしたね。専門性が高く、生活の向上に直結していたからでしょうね。まあ私自身将来のことをはっきりイメージして、工学部を志望したわけではなくて、人気だからとか縁があったからとかで入ったんですけどね。
ー大学へ入学して何か卒業後の具体的な展望などはありましたか?
王さん:いえ、大学ではとにかく勉強に追われていたので、そんな余裕はありませんでした。休日でも映画を見たり、遊んだりなんてめったにできませんでした。大変だったので、早く卒業してのんびりしたいという一心でした。ただ漠然と自分の学んだ知識を国のために役立てたいという思いはありました。それは当時の学生みんなそうだったと思いますよ。
王さん:私は小学校から高校までずっとクラスの役員・幹事的なものを担っていました。学員や体育員などいろいろな委員をしました。また大学では共青団という中国共産党の下部組織、若年層による団体に所属していました。そういった周りの人を引っ張ったりする経験が多かったせいか、卒業後の志望先もあまり他の人が行きたがらない厳しい職場に率先して志望しました。
ー卒業して最初の職場というのは、どのようなところだったのですか?
王さん:最初の会社は砂利を作る会社だったんですね。当時の燃料といえば石油ではなく石炭が主流で、掘ったらその穴を埋めなければいけませんでした。ガスが発生して、爆発しないようにしなければいけないんです。砂利を作る会社なので当然都会からは離れた川沿いのところでした。毎朝バスに1時間半ほど乗って職場へ通いましたね。またデスクワークではないのもあって、大変でしたね。
ーそのお仕事はどのくらい続けられたんですか?
王さん:一年ほどです。そのあと、共青団の書記長にも選ばれました。1985年。これは快適で、素晴らしいオフィスでの仕事です。友人からも羨ましがられましたよ。たくさんの共青団員の各地方支部での仕事を計画したり、支部の代表者たちと会議したりしました。トップなわけですから、もちろん大勢の前でしゃべらなければいけませんでした。でも文を書いたり、発表したりする経験が全くなかったので大変でした。大学で勉強したこととかけ離れていたのでね。より良い原稿を書くために、寝ても覚めても書き直していました。枕元に置いて「あっ、これだ!」と思いついたらすぐ忘れないように書き留める、そんなことをずっとね。その甲斐あってか、一年くらいして文を書くのにも慣れ、社報の記事を任されることもありました。
ーその頃の暮らし向きというのは、幼少期に比べるとかなり豊かになっていましたか?
王さん:同じ会社の他の社員に比べると、私のお給料はかなり良かったですね。私と同じ副課長レベルの人はたくさんいましたが、私は電気技術職の資格を持った助手でもあったので、その分のお給料が別で出たんですね。だから小さいころよりはずっと豊かになりました。
王さん:あとお給料だけじゃないんです。ある程度(私は)地位があるでしょう。日本ではみんな平等、公平であるという考え方ですが中国はそうじゃないんですよね。地位があれば、ある程度生活の融通が利くんですよ。例えば、石炭です。家にある石炭はあまりいいものではありませんから、書記長だったので会社に頼んで少し良い石炭を会社の車で家に運んでもらったり、引っ越しのお手伝いを社員さんにしてもらったりいろいろしてもらいましたね。本当にいい暮らしでした。
王さんの過去:中国から日本へ
ーそれでは当時その生活には満足されていたんですよね?
王さん:そうですね、満足していましたよもちろん。じゃあなぜ日本に来たのかっていうのかが気になりますよね(笑)
ーそうですね、ちょうど気になっていました笑
王さん:二つ理由があります。まず当時日本は中国のような貧しい国からすると、憧れの国でした。私が当時中国で観た日本の映画やドラマは多くはありませんでしたが、そういったものを通して知る日本の風景、人間関係に憧れたんです。近所の人同士が毎朝愛想よく挨拶したり、絆の深さがうかがえたりしてね。山口百恵の出ていたドラマや高倉健の出演する映画も見ました。そんな風に憧れていた日本にチャンスがあれば行きたいと常々思っていたんです。
王さん:もう一つのきっかけは、わたしの奥さんのお母さんが日本人在留孤児の方だったことです。それで1988年にお母さんは日本に帰国しました。それで私たちも日本に行きました。奥さんとは中国で出会って、結婚したんですが当初は義母が在留孤児の方だったとは全く知りませんでした。義母が帰国してから二年後、義母から「一緒に家族として日本で暮らしてほしい」と言われて日本に来ることを決意しました。
ーでは日本に来ることはかなり急に決まったんですか?
王さん:そうですね、急な事だったので私は自分の妹の結婚式に出席できませんでした。
ー最初に来日した際、住んだところはどちらだったんですか?
王さん:横浜の戸塚です。家内のお義母さんがすでに住んでいたからですね。小さな県営住宅に私の家族三人、お義母さん、家内の弟夫婦で一緒に住みました。
ー最初日本に来られたとき、日本での仕事などは決まっていませんでしたよね?
王さん:仕事も決まっていませんでしたし、日本語も分かりませんでした。最初の仕事はお酒の問屋さんの倉庫での仕事です。体をそれほど長時間使う立ち仕事には慣れていませんでした。日本語はその仕事の合間に勉強しました。ハンディタイプの漢字辞典をポケットに入れて持ち歩いていました。日本語はだいたい漢字の発音が難しいんですよね。
王さん:仕事の昼休みには食べ終わってすぐ日本語の勉強をしていました。そのうち慣れない倉庫での仕事のせいで、背骨を傷めてしまいました。そこで生活指導員の助言もあって、職業訓練学校にいくことになりました。そうして1990年に来日して、92年に日本の電気技師の資格を取得することができました。
ーそれはやはり中国の大学で学んだ知識が活かされたから、資格が早くにとれたのですか?
王さん:さまざまな理由があると思います。
王さん:知識として電機の基礎知識を持っていたこともあります。また中国の大学で身についた、常に勉強しなければならないという習慣も活かされました。技士の資格の勉強と同じころに車の免許も取得しました。一日中技師の勉強と免許の勉強をしていました。
ー勉強しないとな~(笑)
ーその資格を取られた後は何か技士に関係する仕事に就かれたんですか?
王さん:アルバイトみたいなものですが、電工屋さんの手伝いですね。卒業したらうちの会社に来いと声をかけてくださる社長さんがいたんです。手取り30万、一日1万円ですよ。1万円といえば、中国では3カ月分の給料です。それに当時は円の価値が高く、ものが安かった。消費税も3パーセントで始まったばかりで、ガソリンなんかも90円/Lで、今の半分くらいです。そのあと自分で設計したかったので、より大手の会社に転職しましたけどね。
ー大学で教えていらっしゃった経験もあると伺ったのですが…
王さん:それは日本ではなかったんですが、中国で非常勤ですが先生として学生に電機の知識を教えていました。
ー日本に初めて来られた時、周りに中国の方はいらっしゃいましたか?
王さん:知り合いはほとんど日本人ばかりです。職場のひともほとんど日本人ばかりです。中国人の友人ができたのは、2015年頃です。少し前までは仕事が忙しかったり、連絡手段が電話しかなかったり、なかなか難しかったです。横浜はたしかに中国人の人も多いですが、趣味があまりなかったので交流する機会がありませんでした。
王さんの今:レストランの始まりへ
ー今もエンジニアとしてのお仕事はされていて、料理屋さんのお仕事と並行して(エンジニアのお仕事を)されている感じなのですか?
王さん:はい、そうですね。料理屋さんの仕事もしていますが、どちらかというとエンジニアの仕事が私の本業です。レストランは家族でしているサービス、サイドビジネス的な(笑)。
ーレストランは上大岡とこちら(関内)と二つお持ちなんですか?
王さん:いえ、まだほかにもあります。
ーサイドビジネスと言いつつ、すごく大きいですね!
王さん:なぜこういう道(レストラン経営)を選んだかというと、また長い話になります。今お店は7店舗ほどあります。経営は娘や息子に任せてあったりします。まず1995年にお店の原型となる屋台を出し、最初のお店ができたのは1998年です。しかし、原点は1993年に遡ります。当時私たちの子供が保育園に通っていました。そこではバーター(barter/物々交換)がありました。そこの出し物で食べ物を売ってもよかったので、私たちは水餃子を作りました。結構人気でお客さんも繁盛しました。友達を呼んできて皮から作るんです。その人気さを目の当たりにして、水餃子をどこかで売れないだろうか、と思って始めたのがきっかけです。
王さん:最初の(水餃子販売の)お店は大船の商店街の一角で、嫁が主に切り盛りしました。私はまだエンジニアとしての仕事が毎日ありましたから、土日に手伝いをしていました。そのお店の評判もよかった上、お店で暖かい中華料理を食べたいという要望もあって、友達に相談して上岡にお店を開きました。お店のメニューとかはほとんど私が作ったんですよ。
ー美味しそうです笑 料理はむかしからお上手だったんですか?
王さん:料理はそうですね、昔からお酒が好きで、お酒が好きだとそのおつまみとかおかずとかもつくりますからね。いまは家でそれほど料理はしませんが、水餃子教室は何度か開いたことがあります。多くは公民館とかで日本の方に水餃子の作り方を教えました。平日は仕事があったので、大体土日開催で新聞に広告を出して開いてました。最近はやってませんが、餃子に限らず小籠包とかもしました。
ーここ(関内のお店)の料理は奥さんかどなたかがつくられているのですか?
王さん:はい、いまは専門のコックさんを雇って作っています。もちろん私も調理師免許を持っていて餃子など料理できますよ笑
ー僕は中国にルーツがあるもののほとんど日本で生活してきたのでわからないのですが、中国東北料理というのはどのような特徴があるのでしょうか?
王さん:ちなみにあなた(張)は何年生まれですか?
ー2002年です。
王さん:若いですね~笑 私の息子は1994年で、娘が1987年なので息子と6歳差ですね。20歳くらいですね。でこれが一般的な東北料理、锅包肉(下味をつけた薄切り豚肉に衣をつけて揚げ、甘酸っぱい醤油ダレを絡めたもの)と东北大拉皮(ツルツルもちもちした極太の春雨)です。親御さんに聞いたらご存じでしょうねきっと。
ーお子さんは二人とも日本でほとんど過ごされてるんですね。
はい、娘が三歳の時に中国から一緒に連れてきて、息子は日本で生まれました。このあとも息子とお店のことで話し合います。
ー料理の材料は日本で仕入れられているのですか?
基本的には日本で買ってます。全部中国だと大変なので。でもいくつかは中国から直輸入しています。やっぱり日本では手に入らないからね。
ー将来生涯を終えるなら日本と中国どちらで終えたいですか?
王さん:自分のことだけ考えると、中国ですね。行ってみたいところや見たいものがあるんですよね。でも私にはいまは娘や息子、家族がいるので迷います。65歳になったときに決まると思います。でもやっぱり日本になると思います。まだ分かりませんよ、でもとにかく日本や中国、世界のいろんなとこに行ってみたいです。もちろんいままでにも訪れたことはありますがそれはすべて仕事の関係です。なのでもうすこし旅行として、ゆっくり楽しみたいです。
ー王さんはこれまでたくさんの選択をされてきたと思いますが、その中で大事にされていることはありますか?あと何か続けたいことはありますか?
王さん:若い世代に伝えることはこれからも続けたいです。人生にはその時、その時でやるべきことがあるんですよ、それをしっかりやり遂げる。そうすることで後悔がないようにすること。それが大切だと思っています。
ーこれからもお店は続けていかれると思いますが、なにか目標はありますか?
王さん:うちの出している東北料理は、日本ではまだマイナーなものです。中国料理といえば辛いので有名な四川料理や広東料理の方が、日本では人気です。そういった中国料理が広まるのにも何十年と時間がかかりました。なので東北料理を広めるには時間はかかると思いますが、より多くの人に知ってもらうためにこのお店を続けたいです。
インタビューを終えて
終始ゆったりとした語りで、和やかな時間が過ごせた。王さんは60代とは思えないようなエネルギーあふれる方で、つねに我々の興味を引きながら自分のことをテンポよく話してくださった。今回は残念ながらご自慢の料理を頂くことができなかったが、メニューや王さんのお話からその美味しさが伝わってくる。是非ともこの記事を読んだ皆さんにも足を運んで頂きたいと思う。
「鉄鍋炖 関内」について
- 公式サイト:https://e662201.gorp.jp/
- 住所:神奈川県横浜市中区福富町東通4-8 イセフクビル2F
- 定休日:木曜日(※宴会予約の場合は別途対応)