ぶらり中華旅日和 西荻窪街角饅頭店「吉祥天」(前編)

人を知る

直近のタピオカブーム再加熱、台湾唐揚げなどを筆頭に、都内で台湾料理が注目を浴びている。
今回我々はJR西荻窪駅から歩いて約10分、静かな住宅街に建つ台湾小吃のお店を訪問した。小吃とは、店や屋台で食べる簡単な料理の事で、このお店の自慢は、饅頭(まんとう)と呼ばれる蒸しパンだ。
お店の名前は「吉祥天」。老闆(読みはラオバン。中国の言葉で店主を意味する)の邱任遠さんに故郷・台湾の事や日本に来た経緯など様々なお話を聞いた。

※外観の写真

・邱さんの幼少期〜青年期

ー今日はよろしくお願いします!まず初めに、台湾のどちらの出身ですか?「台湾の一番南で、高雄よりも南にある屏東(ピンドン)出身です。漁港があって、マグロが有名です
※屏東:台湾の県の一つ、台湾南端に位置する。

店内の台湾地図。屏東は白丸の部分。

ー小さい頃はマグロなどの魚介類を食べて育ったのですか?
「そうです。屏東(ピンドン)はマグロに限らず、とにかくご飯が美味しい地域です。その様な所で、客家の私は育ちました」
※客家:読みはハッカ。客家語を話す漢民族の一派で、中国の北から南の地方へ移住を繰り返してきたと言われる。料理や言葉に独自の文化を有する。

ー老闆は客家なのですよね。客家の方の特徴を教えてください。
「中国の山間部から移動を繰り返してきた客家は、節約家で忍耐力が強いです。また、仕事も家庭も大事にしますよ。料理にも研究熱心な民族だと思います」

ー思い出の料理はありますか?
「ちっちゃい頃は、、角煮!!角煮は毎日必ず出てました。醤油ベースで甘口の角煮をご飯に乗せて、ほぼ毎日!お店の角煮もその時の味を再現しています」

ー卤肉(ルーロウ)とは違いますか?
「卤肉は少しひき肉に近いですね。角煮はそれより3~4倍の大きさです。東坡肉(トンポーロウ)よりは小さくて食べやすいです。地元では焢肉(コンロウ)と言いますね

上の写真が焢肉で、下の写真が卤肉。 焢肉に比べて、卤肉の方が小さい事がよく分かる。

ーご両親について教えて下さい
「私の父は国家公務員、母は学校の先生で、2人とも台北で働いていました。私の世話ができなかったので生まれてすぐ、おばあちゃんの家に預けられました。両親とは月に1度会うくらいでしたね。
なので5歳まではずっと田舎(ピンドン)にいて、小学校に上がる前に台北に移り、両親と暮らす様になりました」

屏東ではどの様な家に住んでいましたか?
「もう普通の一軒家ですよ。近くには、パイナップルやパパイヤなどの果物も実っていました。漁業だけでなく農業も盛んな町なので」

屏東のおばあちゃんとは客家語で話していましたか?
「そうですそうです。なので初めて台北に行った時は標準語に慣れなかったです。
しかし、小学生の時はまだ方言は禁止されていた時代で、家でもなるべく標準語で話していました」
※邱さんが小学生の頃、つまり1980年前半から半ばにかけては、国民政府による「国語運動」の最中であり、学校で客家語を話すと罰せられた。

屏東から台北に移って、何か違いは感じましたか?
「台湾は小さな島ですが、食文化は少し違いました。南部は年中20度位で冬がありません。暑いので黒糖を多く使う事から、南の方は少し甘口の味付けです。何でも甘いですよ笑、お茶も角煮も!!
北の方は冬も少し寒い事と中国の食文化の影響で、辛口も含めて色々な味付けがあります」

ー青年期の夢とかは
「私の年代の台湾の人は、大学で外国語を勉強して海外で仕事をするという夢を持つ人が多かったです。英語圏が人気でしたが、日本のドラマや漫画の影響で、日本に行きたい人も少なくなかったです。その中で私は大学で日本語を学びました」

老闆もドラマとか見ていましたか?
「最初に見たのは、東京ラブストーリー!学生の時、日本のドラマや雑誌のファッションの影響で、ガウンを着ていた事がありました。台湾は冬でも暑いので、上はガウンでも、下はサンダルを履いていたら、日本人の友達に『暑いのか、寒いのか分からない!』とツッコまれましたよ笑」

ー大学卒業後、社会人になってからは何をされていましたか?
「卒業後、台湾では2年間軍隊に入らないといけなかったです。22歳から24歳まで。その後、台湾にある日本の半導体商社に入り、営業をしていました。大学で日本語を学んでいましたからね。そこで初めて日本人の上司・同僚と仕事をしました」

ー上司などは、元々持っていた日本人のイメージとは違いましたか?
「もうドラマと全然違います。細かい、、日本人はしっかり順番を決めて、それを守ります。初めはどうしてこんなに細かいか分からなかったですけど、今自分でお店を開いてみて、大切な考え方と思います」

インタビューに応じる邱さん

・邱さん、初来日

ーまずは台湾の日本企業で働かれたという事で、日本にはいつ頃来られましたか?
「2001年です。当時26,7歳で、日本に行って、もっと日本の文化を知りたいと思う様になりました。また当時は日本語もまだまだで、簡単な日常会話しかできなかったので、日本で日本語を勉強してから台湾に戻りたいと思いました。そこで、会社を辞めて日本に留学に来ました」

ー実際に来てみて、また日本のイメージは変わりましたか?
「もう全然違いました。元々は、全てがいい国だと思ってました。もちろんいい国ですよ!でも世界中どの国でも、良い所もあれば悪い所もあります。自分の中で調節して慣れる必要がありました」

ー日本で一番慣れなかった所は?
「電車!これが一番慣れない。。具体的には、すごく混んでて、すごく人がいます笑。食べ物もすぐに慣れて、他の事も徐々に慣れたけど、電車だけ、、
でも、すごく便利ですよ!便利だけど通勤が苦手でした」

ー留学終わってからは何をされましたか?
「行く前は、2年間留学して、日本語学校で勉強して帰る予定でした。でも、デザイン、映像撮影・編集に興味があって、専門学校で勉強しました。幸いにも卒業後、映像関係のお仕事の内定を貰いました。実は、4年間位ホテルの結婚式の映像撮影・編集の仕事をやっていましたよ。
例えば、指輪交換やキス、新郎新婦入場などのシーンを撮って、食事中に編集をするんです。そして最後、新婦のスピーチの時に私が編集した映像を流しました。冗談でなく、9割の人が涙を流します。本当に感動しました」

ー4年間、映像関係の仕事をした後は何をされましたか?
「実はその後、31歳の時に貿易会社に転職しました。少し映像に関係があって液晶メーカーに2006年から2010年まで勤めましたが、リーマンショックの影響で失業し、台湾に帰りました」

 

※後編に続きます

 

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