メンバーインタビュー:韓松錡さん 

人を知る

約束の19時を少し過ぎると、韓さんは扉の向こうからひょっこりと姿を現しました。その場に漂っていたわずかな緊張感を解きほぐしてくれるようなにこやかな笑顔が印象的です。

韓さんは、中国北京出身の大学院生です。北京師範大学を卒業した後、修士から東大に入学されました。現在は、東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系科学史科学哲学研究室の博士課程という、気が遠くなりそうなくらい長い名前の学科に所属しています。なんだか難解な感じですが、韓さんは朗らかな調子で自身の現在の研究内容をわかりやすく教えてくださいました。

にこやかな笑顔が素敵な韓さん。

-韓さんは、確か、AIに関する哲学を研究されていると思います。なぜその研究内容を選ばれたのか、その研究をするにあたって、なぜ日本の特に東京大学を選ばれたのかということについて伺ってもよろしいですか。

 「はい。 実は、私の専門はAIではないんです。 AIを研究するのは、哲学界ではほぼ分析哲学、言語哲学、つまり英米系の哲学ですね。イギリスやアメリカの分析哲学の哲学者はAIの方に注目してるというということです。私の方は、大陸哲学、ヨーロッパ大陸の現象学に注目していて、私の専門は心理学の哲学です 。AIの哲学は興味にも興味は持っています。」

 「なぜ、日本の東京大学を選んだのかと言うと、個人的な理由です。私は中国出身なので、 日本は近いし、あとは日本は地理的には東の国なんですけれども、西洋的とみなされていて、だから日本に行きたいと思いました。」

 

-やっぱり中国でできる研究内容と、日本でできる研究内容には違いがありますか?

「そうですね。中国ではやっぱり政治的なことを考慮しなければいけません。 あとは勿論 、 ヨーロッパとかアメリカを(研究場所に)選ばない理由にも、政治的な原因があると思います。」

「日本は保守主義と自由主義の間にあると思います。例えば 、 コロナを例にとると、ヨーロッパやアメリカはマスクをつけるということは、結構禁じられている雰囲気がありますけれども、日本ではもっと(個人の判断に委ねられていて)自由だと思います。 ヨーロッパやアメリカの雰囲気は中国とは正反対で、私にとってはあまり好ましくありません。 日本はその(政治的雰囲気の観点で中国と欧米の)ちょうど良い雰囲気だから、 日本ではその学術的自由さがあると思います。」

 

-それはアメリカとかヨーロッパに比べてもそうですか?

「そうですね。アメリカとヨーロッパでは、その政治的なことを考えれば、例えばLGBTとか種族とかの議論って結構厳しい可能性があるので、やっぱり日本の方がもっと自由に皆んなで論じることができると思います。 特に文系の研究は、そういう自由さが必要だと思います。」

 

なるほど、保守主義と自由主義がどちらも存在しうると言う意味での学術的自由さが日本にあると言う指摘には頷かされます。

続いて、私たちは韓さんが哲学を専攻するに至った経緯を伺いました。

 

-韓さんは以前、北京師範大学にいらしたということなんですけど、どんな大学でしたか。

「北京師範大学は結構古い大学で、120年の歴史があります。でも、皆さんご存知かもしれませんけど、1949年に今の中国(中国共産党が全権を握る中華人民共和国としての中国)になったので、それ以来、北京師範大学もだいぶ変わりまし た。北京師範大学は、「師範」と言う言葉の通り、もともとは先生を育てる大学を目指し ていましたが、この30年間はもっと総合的な大学を目指して、様々な専門を発展させるということになりました。ただ、大学発足当初は、技術的なエンジニア専攻とかがほとんどなくて、ただ文系と理系の専攻があるだけでした。 哲学は文系の専門なので、 結構学部とか大学院も結構世界的に有名な研究機関だと思います。」 

 

-韓さんのご専門の現象学をやる上でも北京師範大学はいい環境だということでしょうか?

「現象学はあまり有名ではないかと思います。私はやっぱり、英米系の哲学の方が北京師範大学では有名だと思います。でも、北京師範大学の最も有名な分野は、地理学と、 心理 学、教育学、あとは中国語文学です。」

 

-じゃあ、どちらかというと、 韓さんの興味分野の中では心理学に強いと言う点で、北京師範大学がいい大学だと判断したのですか?

「いえ、実は私、大学の時に心理学の授業を一つも取っていないんです 。 私は、日本に来た時、心理学の素人でした。中国では、実は私、最初は哲学学部ではなく、科学部に入ってたんです。私は高校生の時に科学オリンピックのチームメンバーでした。でも、そのあと科学実験はくだらないと思って…実験を繰り返して繰り返してそれをしなきゃいけないという ことに我慢できなくて。やっぱり哲学の方がいいと思いました。それから、科学哲学を選ん だのも、私はもともと理系の学生だったことが影響しています。科学哲学を選ぶと、私の理系の知識を利用できるかと思いました。」

 

-理系から哲学の道に変えるきっかけっていうのはあったんですか? 

「まあ消極的な理由は、先ほど言った通り、実験がくだらないと思ったのがあります。 あとは高校生の時に、既に哲学と社会学に興味を持っていて、その時もフランスとかドイツの哲学者の本を読んでいたというのもあります。それから、 哲学に興味をもった原因は、科学を勉強した時にエントロピーという概念が哲学の話にも近いと感じたと言うのもあります。 エントロピーは、物理学とか化学では多分説明しづらいと思うんですけれども、哲学の話として説明した方が理解しやすいと思います。今はエントロピーの話からは離れてしまったんですけどね笑」

話は韓さんの学部生時代へと移っていきます。

 

-韓さんは北京出身だと思うんですけど、大学にはやっぱり中国の色んな所から学生が来る と思います。何かその地域による考え方の違いなどはあったりしますか?

「地域によって確かに違いがあると思います。 北京とか上海とか大都会出身の学生は、他の所の出身学生と比べて、結構考え方が違います。あとは、都会の人と農村の人でも違います。中国は西北の人と南東の人で経済状況がかなり違うので、貧乏なところの出身の人の考え方と、経済状況が良いところ出身の人では結構違うかもしれません。あと、(都会の人と農村の人では)勉強の能力も違います。 例えば、同じ大学に入って、元々は勉強が得意でも、農村部出身の人だと、大学に入ってから勉強が難しいと感じる人が多いです。なぜなら、そういった出身の学生の中には、 18歳までパソコンを一度も見たことがない人も多くいるからです。だから最初、情報学の授業に参加する時に、どうやってパソコンの電源をつけるのか分からない人もいます。」

 

最先端のテクノロジーに囲まれて育った人と18歳までパソコンを見たことがない人が一緒に学ぶ環境というのは衝撃的です。

中国社会の広さと深さに打ちのめされながらも、私たちはインタビューを続けます。

 

-北京とか上海とかの都市部と農村部では教育格差ももちろんだと思うんですけど、家庭の 方針の違い、教育方針の違いとか、そういった違いもありますか?

「 例えば、北京や上海では、いい大学に入るとか、いいキャリアを歩むとか、そういったものを目指してる両親が多いのに対して、農村の家庭では、勉強だけでなく、学校から帰ったあとにも家の色々なことを手伝うことが求められていることが多いと思います。特に、農村の女性の学生はもっと厳しいと思います。」

 

-寮にもいろんな地域から来た学生がいますよね?

「そうです。だから、大学の寮では時々、そういう考えの対立があります。 私の寮にも、忌避感(他者との交流を拒み、自分の世界に閉じこもる傾向)を持った人がいて、その人はずっと私たちが彼をいじめていると感じていたようです。その後、彼はわたしたちの寮から離れました。彼は、小さな町の出身で、それもあって私たちとはちょっと考え方が違ったのだと思います。もし、彼が農村部の人だったと したら、さらにもっと考え方が違っていたかもしれません。」

生まれ育った環境が違う人と理解するといっても、現実はそんな一筋縄ではいかないということを、韓さんの話を聞いて、改めて突きつけられました。

それでも、相互理解のためのヒントはあると韓さんは言います。

 

-昨今の日本では、外国人を受け入れ、価値観の違う人と分かり合おうという流れがあります。 一方、中国では国内でもこんなに差があるわけですが、相互理解はどうやって進められてきていて、どうあるべきだと考えられているのでしょうか?

「そうですね、実は中国でもそういう違う地域の人との話し合いという経験はあまりないので、それをどうやって日本のグローバル化に役立つ経験とできるかはあまり分からないです。強いて言えば、交流することが必要だと思います。交流して話をしないと、そもそも互いを理解することはできないので、話し合うことが一番大事だと思います。あとは、生活史ですね。生活史は私が個人的に結構好きな概念なんですけれども、皆んな生活史は違っていて、 個人的な生活の歴史は、個人の一番厚い本というものです。だから、互いの生活史を理解することが、互いの理解を可能にする基礎だと思います。」

 

生まれた場所も、育った環境も、そこで培ってきた「当たり前」も違う他者と互いを理解し合うというのは、言葉では簡単に言えても、実際は想像を超える高さの壁を乗り越えなければなりません。しかし、韓さんは、その人が生まれ、歩んできた旅路としての生活史を共有することが、きっとその一歩になると言います。韓さんはインタビュー中ずっと、私たちの拙い質問にもよく耳を傾け、そして丁寧に言葉を返してくださいました。韓さんのように、相手の語り、相手の生活史によく耳を傾けること。それが、混迷を極めるこの時代に自分と異なる他者と手を取り合うための第一歩になるという確かな実感が、私たちを満たしてくれるインタビューでした。

インタビュアー:増田香凜、三木千風、クク ウォンヒョン、宮川理芳、阿部想

文責:阿部想

大場莞爾