寒い場所でお茶は育たない。私たちが日ごろ飲んでいるお茶の原木は温暖な気候を好み、栽培するために年平均気温が15℃以上であることが必要である。厳冬の地-冬の平均気温が氷点下になるような場所で栽培条件は到底満たすことができない。北海道や東北地方でお茶を育てることは難しい、というのが我々の抱くイメージであろう。
前田千香子さんは岩手県でお茶の専門店「焙茶工房 しゃおしゃん」を営み、東北に細々と残るお茶づくりの伝統を守る活動をしている。今回、茶話日和はその活動ぶりをインタビューすべく、岩手県盛岡市に向かった。
お茶を淹れる前に、岩手で中国茶を広めるまでのいきさつを語って頂きました。
前田さんは東京大学に進学し、社会学を専攻。卒業後は地元盛岡に戻り12年ほど公務員として働いていました。日々の仕事に忙殺される中、出会ったのが中国茶だったようです。
-なぜ台湾と中国に行ったかという話からしますと、動機というのは様々あるんですが。岩手県のことがすごく好きで、岩手に関わる仕事がしたいと思って、県庁に入ったんですが、自分がやっている仕事が、私の身の回りの、岩手県に住んでいる人にどのように役に立っているのかということが、いまいちよくわからないっていうような気持ちになってしまった時があって。今になれば、当時は組織で働くことをよく理解できていなかったのだと思いますが。それとともに、仕事がすごく忙しくて、プライベートでも辛い時期っていうのがあってですね。それでその時お茶に出会って。台湾のお茶だったんですけど。台湾人の友達がいて、台湾に遊びに行った時に山の方に連れて行ってくれて。産地に近いところで本当に新鮮なお茶を飲ませてもらって。台湾の烏龍茶だったんですが、すごくそれがおいしくて、日本でこんなお茶飲んだことないと思って。それからもうお茶にハマってしまって、お金を貯めては休みの度に、中国の広東省や福建省、四川省に行ったりとかしていて。
-そうやってるうちに、自分がすごく疲れた時にお茶を入れて飲んで、なんて言うんですかね、日中にさまざまこう自分というのが分裂してあるような感じのものが、ひとつ体の中に戻ってくるみたいな気持ちになって。癒されて落ち着いて。お茶って本当になんか救われるなと思ったんです。そのあとに今度はお茶が手元にすごく溜まってきたので、それを職場に持っていって昼休みに周りの職員の人に飲んでもらったら、すっごく喜んでもらったんですね。その時に、「私がやっていることで、今までこんなに誰かが喜んだことあっただろうか」とすごく思って。で、私はこういうふうに人が喜んでくれることをしたいっていう気持ちになったために、お茶を、仕事としてやりたいなあっていうふうに思いました。そう決めてから2年ぐらいで退職しようと思って、お金を一生懸命貯めて退職をしました。
しかし、お茶に関する知識不足は明らか。開業前にお茶の生産や加工の現場を見てみようと、前田さんはお茶留学を決意。最初は台湾へと飛びました。
-台湾のお茶屋さんって、ご存知かもしれないですけど、試飲をさせてから買わせてくれるので、大きなテーブルがあって、結構長い時間何時間でも試飲させてくれるっていう感じで。そこに行くのが楽しくて、結構行ってたんですね。そしたらそこで知り合った人が、お茶の先生で。その人が、自分が知っているお茶屋さんに連れて行ってくれて。それでまたそこに行ったらば、また別のお茶屋さんに連れて行ってくれて、みたいな。どんどんどんどん、私がお茶が好きだって言ったら紹介してくれるようになって。最終的に行ったところが九份(編集者註:台湾北部の町。日本では夜景で有名。)っていうんですけど。
-喫茶もあるし、お茶の販売もしているっていうお店があって。販売部のところで、2週間だけバイトしていいよって言われて。観光客などが来た時にお茶を出していたんですね。そしたらそのバイトの最終日に台湾の若い子達が3人くらい来て。その中にすごくお茶が好きな人がいて。意気投合して「そんなにお茶が好きならばこのお茶を飲んでみろ」って言って、その若い台湾の人がポケットからお茶を出したんですよ。本当に今考えるとなんだったんだと思うけど。それで、「俺が1番焙煎がうまい人だと思ってる人のお茶をぜひ飲んでみて。」と言われて。その時には、何かあんまり強い印象はなかったけれども、スッキリしたお茶だなと思いました。その男の人が「この先生と知り合いになりたいならば、俺に電話しろ!」って言って、紙切れに電話番号を書いて、それで去って行ったんですよね。
-それでその後すごく気になって電話をしました。「やっぱり会いたいので紹介してください。」って言ったら、先生が「いいですよ」って。台湾の友達に一緒に来てくれって頼んで、2人で行きました。そこで会ってくれたのが今の焙煎の先生なんです。その先生は私と同い年で。いい人でいろいろ教えてくれたんですね。それが、私が台湾を離れようとしている一ヶ月前のことで。 1ヶ月その店に毎日通って、いろいろ話を聞いたんです。すごく良い人で、「あなたはお茶をいっぱい持ってるからお茶を売りません。」って、いっぱい飲ませてくれるんだけど、お金を一切取らないでずっと話してくれて。
お茶を通したつながりから学びを深めた前田さんは、次に中国・厦門(アモイ)へと飛びました。
-厦門に行ってからは、憧れのお茶の山に行きたい、という一心で。鳳凰単叢(ほうおうたんそう)というお茶は、厦門からまずバスで4時間ぐらいかけて、広東省のスワトウ市に行って、そこからまた山に入るのに3時間くらいかかるところで。スワトウでバスを降りたその目の前に、私の憧れている鳳凰単叢の専門店があったんですよ。そこに入ってお茶飲みながら話をして。そしたら実家で作ってるって話になって。行かせてくださいって頼んで。日にちをまた変えて、実家に連れて行ってもらって。そこは古いお茶の木がいっぱいある場所で。そこのおうちに泊めてもらって、お茶作りを見せてもらったりとかお茶摘み一緒にやったりとか。鉄観音(てっかんのん)というお茶も有名なんですけど、そこも厦門から2時間くらいかな。そこに行って色々教えてもらったり。でも、あんまりにもたくさんのお茶を見てしまったために、いったいどれがいいお茶かとか、値段もピンからキリまでで、どこを紹介したかったんだろう、というのがだんだん分からなくなってしまって。その時に、台湾でお金を取らないで教えてくれていた先生宋さんのことを思い出して、台湾に戻ることにしました。
-宋さんのところに戻った時に、宋さんが焙煎の本質を、初めて口に出して教えてくれて。焙煎まで教えてもらえるなんて全然思ってもいなかったんですけど。すごいいい機会だから教わることにしました。教わる時に、結局住むところも困るだろうからってことで、宋さんの家に住ませてもらって。1年過ごして帰ってきました。
こうして前田さんは2年近く中国茶の修業を送り、現在は岩手県雫石町でお茶の専門店を営まれています。前田さんが1杯目のお茶を入れて下さった辺りから、茶話日和メンバーの質問が始まります。これこそ本当の茶話日和ですね。
—なぜ日本茶ではなく中国茶なんですか?
-お茶にはまった当時、日本茶もいろいろ飲んだりとか、紅茶も飲んだりとかしていたんですが、特に烏龍茶の味わいっていうのはすごく精緻だし、他に無いなっていう気持ちになって、そこに惹かれましたね。烏龍茶ってざっくり言うと、緑茶より発酵しているものと紅茶よりも発酵していないもの、まあその間ぐらいという感じですごくバリエーションがいっぱいあって。緑っぽい烏龍茶から赤っぽい烏龍茶もあったりして、香りも花っぽかったりとかフルーツっぽかったりとか。初めはその多様性に惹かれたところも大きいと思います。
-お茶を味わうポイントはありますか?
-お茶の味わいは、皆それぞれの感覚でとか、好き好きで、とよく言われますけど、うちの先生の宋さんの考えといえば、お茶は体で飲むっていうことなんです。「あの人はお茶を口と鼻で飲んでるよね。」とかって言っていて。お茶は口で飲むものだし、香りは鼻で嗅ぐものだと思っていたけれど、そうじゃないというか、もうちょっと体全体で楽しむっていう感覚があります。味が甘いとか苦いとかそういうこととちょっと別で。体が少し落ち着いてくるとか、例えば腹におさまると言いますけど、お腹のあたりや胸が開いてくれるような感じがするとか。あるいは、頭が通るような感じがするとか、そういうのも大事にしますね。いわゆる気功みたいな考えとちょっと通じる、そういう考え方ですけど、台湾で私がお会いした人は誰も不思議には思わないみたいな感じがしました。
-お茶の効能は重要視しますか?
-効能を語るのが好きな人たちもちろんいるけど、効能とはちょっと離れたところにお茶の楽しみはあるかなと思います。それは味だったり、香りとかもあるけど、効能とはちょっと別の意味で、身体でどう感じるか。例えば、大陸や台湾のお茶では、舌のどこから唾液が出るかを克明に表現したりするんです。言うと変だけど、唾液が出ることに関しては、お茶を飲む時にものすごく大事にします。普段気にしていない身体の感覚をあえて感じとろうとすることによって、もっと落ち着いてくるっていう、そういうところも多分あると思うんですよね。
続いては岩手県大船渡市と陸前高田市で育てられたお茶「気仙茶」を中国茶スタイルで頂きました。岩手県は教科書的に言うとお茶の育たない土地。東北で育てられたお茶は珍しく、メンバーの興味が向きます。話を聞くと、岩手県沿岸南部ではお茶を育てて飲む文化があるらしく、前田さんは有志を集めて、お茶の栽培文化継承に力をいれているようです。
―岩手のお茶なんですね。
-岩手の沿岸南部の気仙地方、東日本大震災では被害のとても大きかったところですけども、そこは江戸時代か、もうちょっと前から自家用茶の伝統があって、そこの人たちはお茶って買うもんじゃなくて作るもんだと思っていて、昭和や平成の頃お茶を作った人たちも多いんですね。でも作って自分で飲むものだから、全然販売されてなくて、岩手でも盛岡あたりの人たちは知らなかったりしました。今は摘まない人が増えて、私たちに摘ませてもらって。
-「私たちに摘ませてもらっている」の「私たち」とは誰ですか?
-私が責任者で、「しゃおしゃん」という店として摘ませてもらうんだけども、手摘みなので、手が必要なんで、お客さんとか知り合いとかでしています。コロナ前はSNSで茶摘み希望者を募集してみたんですけど、今は知り合いだけで50人ぐらいかな。
-摘んでどうするんですか?
-本当にありがたいことに、地元の農協さんにお茶の製茶の機械があるんですよ。一回35キロの生葉を入れて作る機械なんですけど、それに搬入すると、オペレーターの人がお茶を作ってくれて。
-気仙茶(岩手県気仙地方で育てて摘んでいるお茶)について教えてください。
-私は2005年から気仙のお茶を摘ませてもらっていて。量はすごい少ないです。1年間にまあ30キロとか20キロとかしか摘まないから。で、お茶は加工すると、重さが大体5分の1とかになります。4キロとか5キロとかしかできないです。お茶の会で淹れて飲んでもらったりとか、いろいろな機会に販売したりしています。2005年から震災の前までは、ご縁のあった茶畑数か所を、1年に1回摘んだり、その前後に草刈り等に行っていたんですけども、震災があって、その時に放射能の影響が出てしまって。すると地域に1ヶ所しか工場がないのに、除染作業をしないお茶が混ざってしまうと、地域のお茶全てに放射能が出てしまうじゃないかと。そこでみんなで一緒に除染作業しましょうっていう活動をやったりとか。また、お茶の木が、一部津波で流れたこともあったりしたんですけど、ほとんど残っているので地域の宝として大事にしましょうというような機運が高まって。地域で、お茶を守る会(北限の茶を守る気仙茶の会)ができたりとかしていました。その会では、以前は地元の人が摘んでいたけれども、その方が亡くなってしまったのでそこで草を刈って摘ませてもらうということもありました。
気仙には、樹齢百年以上のお茶の木があちこちに残っていたりして、それは日本でもあまり一般的ではないことかなと思うんですけど、そのような貴重なお茶畑も管理ができなくなってしまうことがあるんです。私たちが元々伺っていた、古いお茶の木の多い畑があるんですが、この数年そんなに頻繁に行けなくてどうしようかなと思っていたんです。でも、今年から月に1回行って、地元の人たちと一緒に作業をすることに決めて、やっています。そんな活動を通じて、この畑のようなところが残っていてくれれば良いなと思っています。いずれ私たちが行けなくなっても、地元の人たちがこの畑やお茶の木を大事に感じて、手入れして残していったら素晴らしいな、と思っています。
-気仙茶は地域内のみんなだけで楽しむ感じですか?
-自家用茶の伝統を守って、家で作って家で飲んでいるっていう方々がほとんどかなと思います。でも、今は気仙茶を守ろうという集まりがいくつかあって、摘んでない畑で摘ませてもらって、それをパックして道の駅や地域のお店で売るというのが始まっています。
-お茶を通した地域との関わり方として、何か意識している部分がありますか?
-私は盛岡を中心に各地でお茶会を開いていて、その中で気づいたんですが、子育て中の若いお母さんの中には、子供を産んでから忙しくてお茶を飲んでいないという人たちが多いんですよね。あるいはこんなにゆっくりお茶を飲んだことは今まで生きてきた中ではなかった、という人もいます。今はコロナ禍だから以前にまして、子供を産んでから他の人と話をしてないとかね。やっぱりお茶を飲む場というのは、すごく大事だなって思っていて。
そんなこんなでお茶を飲みながらの談笑が続きました。お茶の力なのか、あっという間に時間が過ぎてしまいます。インタビューの最後に前田さんの展望をお伺いしました。
-1つはさっきちょっと話した、気仙のお茶の畑を守っていくようなサイクルというか、仕組みを作れればいいなと思っています。後は、お茶というものに関して、販売はあまりできないけれど、考え方を広く伝えたいところがあって、で本を書いているので、本を出して、多くの人に読んでもらいたいなというのはあります。今年中には出せるかな。買ってね。
一見お茶に無縁と思われがちな北国、東北。しかしそこには、お茶を通して人々が語り合い助け合う暖かい場所がありました。前田さんは団らんの場を創り、東北の隅に残るお茶づくりの伝統を守っています。東日本大震災やコロナ禍以後「絆」が注目される世の中だからこそ、なおその尊さは増しています。