故郷を繋ぐ、故郷で生きる

人を知る

日本は大きく2つに分けることが出来るだろう。東京と地方だ。東京には1000万人が暮らし、政治経済文化とあらゆるものの発信地であり中心地だ。地方は場所によりけりとはいえ、東京に若者や存在感を奪われている点はどこも同じだろう。若者は東京に惹かれて集まり、あるものは東京での暮らしを続け、あるものは故郷に戻ることを選ぶ。

中村一郎さんは地元岩手に戻り、故郷の発展に尽くした方だ。東京大学卒業後は岩手県庁に勤め、その後三陸鉄道の代表取締役社長に。今は盛岡市の副市長として活躍されている。今回、東日本大震災やコロナ禍以降地方の力に注目が集まる中、何を思いながら行動してきたのか取材した。

 

-東日本大震災からもう11年経ちました。岩手、特に三陸鉄道の復興はどうですか?

「ハード的にはかなり進んできていた段階だと思います。三陸鉄道*自身は、震災から3年後、2014年に全線運行再開を果たしているので、復興の真ん中から少し進んだぐらいかな。私自身は三陸鉄道自身の復興が、日本の復興を引っ張ってるっていう役割を負っていると考えていましたし、そういったことを社員にも話をしながら、沿岸の皆さんのためにできるだけ貢献できることは積極的にやっていこうとしました。」

三陸鉄道*…三陸海岸沿いを走り岩手県の久慈市と大船渡市をつなぐ鉄道。第三セクター形式で営業されており、2011年の東日本大震災ではほぼ全線に渡り被災するなど大きな被害を受けた。

 

-今では独自の取り組みとして、震災の被害を伝える場である「震災学習列車」を運行しているようですが、どのようなきっかけで作られたのですか?

「鉄道自身が大きな被害を受けて、それに対していろんな皆さんの支援を受けてこう復旧をすることができたお返しですね。震災を皆さんに伝えて学んでいただくこともやはり会社の一つの役割じゃないのかと言うことで。それはもう県内だけじゃなくて結構首都圏の中学高校の修学旅行や研修で使っていただいているので。」

「災害ってこの前の大震災は東北で起きましたけども、これが例えば首都圏で起きるだとかね。津波に限らず地震もいつどこで起こるか分からないと思うので、皆さん一人一人が、自分の命を自分で守るということ、守らなきゃダメだっていうことをしっかり認識してほしい。行政が守ってくれるとかそういう訳ではないんですよ。親が守ってくれるとかそういう訳でもない。親と24時間と一緒にいるわけじゃないから。自分ひとりでそういう場面に遭遇した時は 自分で生き延びるしかないんですよ。だからこそ、そのために今のうちからの備えだったり必要な知識だったりを皆さん一人一人学んでおかないと、いざというときに対応が難しいですよ、といったお話をさせていただいたりしています。」

 

-鉄道利用者がいなくなる点では震災もコロナ禍も同じだと思います。日本各地で経済活動が落ち込む中、三陸鉄道のダメージはどうでしたか?

「影響は大きいですね。2020年と2021年度は 2019年度と比較して収入が半分ぐらいに落ち込みました。その分は県や市町村の支援をいただいています。今年(2020年)もまだ新型コロナの流行が続いているので、昨年よりはある程度は持ち直していますが、まだまだです。今年いっぱい我慢すれば平時に戻るっていう見通しがあるなら対策も出来るんですけど、収束が見えないところが苦しいですね。だけど乗り越えて行かなきゃならないですね 。恐らく感染者ゼロにはなかなかならないでしょうが、インフルエンザのようにみんなでうまく付き合っていかなければいけないというところはあるのかなと思いますね。三陸鉄道は大震災で影響を受け、戻ってきたところでまたコロナの影響を受けているという。昨年に比べて人の流れは少し戻っています。でも鉄道でも主要幹線と三陸鉄道のような地方ローカル線では異なる部分もありますが。戻り具合が違うところがあるので。」

 

-どう立ち向かっていく心づもりですか?

「前に進むしかないです。本当に悪い状態がずっと続けば、廃線にする話でもあるんだけど、それは何としても避けなければならないと思ってやってきました。社員たちもそのような気持ちでやっていると。 1つは鉄道がなくては困る人たちがやはりいらっしゃるということがあります。『その人自身の問題であって、家族でもないんだからバスかなんか使わせればいいんだ』とおっしゃる方もいるけれど、単純にバスに置き換えるわけにいかない方もいるんですよ。単に日常の足として使われるだけでなくて、地域活性化させるっていう役割と使命があると思っているので。三陸鉄道の場合はマスコミの方が取り上げてくれたりしたおかげで首都圏でも意外と名前を知っていてくれて、乗りに来てくれる方がいます。そういった方々にできるだけ来ていただくということが、三陸全体の活性化にもつながると思います。そういったことも大事な役割だと考えています。頑張らなくてはならないと思います。」

 

三陸鉄道はNHKドラマ「あまちゃん」以降知名度が上がり、観光スポットにもなっている。地域の生活のためだけでなく、地域の活性化のためにも電車を走らせ続けようという気概を感じた。

そうして次は副市長の仕事の話に。地域活性化に向けて何を考えているのだろうか。

 

―副市長としては、岩手県や盛岡市をどうしていきたいと思いますか?

「副市長なので基本は市長をサポートするというような役割です。副市長として独自の何かがある訳ではないですけど、市としては産業に注目しています。盛岡の場合、産業としては三次産業のウェイトが高いです。逆に二次産業、いわゆる工場が盛岡には少ないんです。だからこそ若い方を含めた、みんなが働く場所をしっかり作っていければと思っています。それにリンクして経済活動を活発化させて市の発展つなげていくようなシナリオにもっともっと力を入れなきゃだめかなと思います。それに全国的にもそうですけど、盛岡もいわゆる移住、つまり外から盛岡に来てもらう、ないしは盛岡出身で今東京にいる人たちに一回戻ってきてもらうにはどうしたらいいか色々考えたりしています。

「今はコロナ禍で、盛岡出身で県外の大学等にいる人たちに、ふるさと便として盛岡の産品を送っているんですよ。学生たちの生活を支援するという意味合いもあるし、故郷の良さをしっかり認識してもらおうという意味合いも含めて。好評だっていいますけど、当然おいしいものを頂けるんでね。だけどそれをいつまでも続けられる訳ではないですからね。」

 

ここには地方の抱える悩みがありありと現れている。上京した若者たちをどうやって故郷に呼び戻すか。一大地方都市として、この難題に立ち向かおうとする姿勢が見えた。

 

最後に、大学の先輩として学生時代の生活についてお尋ねした。

-大学時代は何に打ち込まれていましたか?

「大学の時はワンダーフォーゲル部に入っていました。普段の週末はトレーニング。長い休みは山に行って登山。まあ山道を歩く感じでしたが。北海道から日本アルプス、東北や上越まで色々な場所に行きました。その仲間とは今でもやりとりしています。」

 

-今の学生に伝えたいことはありますか?

「皆さんみたいな年代の人は、今のうちにやりたいことへできるだけトライするべきです。やってみて目標を達成するかどうかそれは結果ですから。目標があるんだったら、何もやらないで後でやっておけばよかったって思うよりはしっかりトライした方がいい 。それは若い時の特権というか、チャンスというか。時間もあるでしょう。これが一旦就職したりとか家庭を持ったりとかすると制約が多くなるので個人として自分のやりたいようにやれないっていうことが増えてくるんじゃないかなと思います。」

 

 

もしかすると、困難に挑んでいく姿勢は学生の時から養われるのかもしれない。

東京と地方という対立の中で地方が抱える課題や避けられない逆境に挑み、少しでも活気を解き戻そうとする中村さんの背中から感じられるものがあった。故郷を離れて暮らしている読者の皆さんも、東京生まれ東京育ちの皆さんも、やりたいことに挑戦して、ちょっと地方に目を向き直してみてはいかがだろうか。

大場莞爾