日本の言霊をベトナムで広げる-マイフォンさんの軌跡

人を知る

人は言葉で考え、言葉によって人格も形作られます。外国語を学んだことで思考や性格が変化する、こんな不思議な経験は外国語を聞いて話して使うと、実感したことはないでしょうか?かくいう私も日本語、英語、中国語を切り替える際は頭の整理が必要ですし、自分がまるで別人になったようにも感じます。

今回は外国語学習を通じて子供たちの心の成長を目指す、ベトナムハノイ在住のマイフォンさんにお話を聞かせてもらいました。

日本との出会い

筆者:今回はよろしくお願いいたします。ベトナムに帰国されてからもお元気そうですね。

マイさん:ハイ、こちらこそよろしくお願いします。私もベトナムに帰国して事業を始めてから数年たちますが、日々ベトナムも変化しているのを感じますね。

 

筆者:マイフォンさんの世代は一番変化を目の当たりにしているのではないでしょうか?

マイさん:おっしゃる通り、私はベトナムが市場主義経済を取り入れた、ドイモイ政策の直後88年に生まれました。びっくりするかもしれませんが、私の子供時代はまだベトナムだとテレビは白黒の上に、町内に1台テレビがあるかどうかという世界です。出身地が地方都市のナムディン(Nam Dinh)ということもあり、町全体が一つの家族のような環境で育ちました。

子供時代を過ごしたナムディンの田舎町(出典:https://thuviennamdinh.vn/Dia-chi-Nam-Dinh/Dia-danh/44-Pho-co-Thanh-Nam)

筆者:人と人の縁が大切な環境だったのですね。

マイさん:日本の50年代~70年代の感覚に近いのかもしれません。以前日本人の90歳になる義理の祖父母に聞いてみたところ、義母の若いころに私の子供時代がそっくりといわれました(笑)

子ども時代父はシクロ(自転車タクシー)の運転手をして母は繊維工場で遅くまで働いており、「豊かになる為は勉強が必要」と常々言われたものです。外資系企業で働くために英語を頑張っていたのですが、思わぬ転機が訪れました。

高校時代の卒業式記念写真、写真左から3番目

筆者:日本との出会いですか?

マイさん:はい、ちょうど04年からハノイを中心に日本企業の進出が増加していき、私の母校ハノイ貿易大学でも日本語学科が人気になった年です。ベトナムではバイクは「ホンダ」、料理には「アジノモト」という形で日本製品が浸透していますが、ちょうどそんな転換期に私はビジネス日本語を専攻することになりました。

新しく触れる価値観と世界 

筆者:大学から日本語を学ばれることになったのですね。

 マイさん:そうです、私の大学には日本人の日本語教師の方が赴任していました。当時すでに70歳近いおじいさん先生で、私の目から見ても生活が不便だったハノイに来るのは、先生にとって大変な決断だったと思います。そんな先生が日本語で語るベトナムは私の育った国でありながら、まるで別な国のように感じられ、この時から言葉の持つ多様性を認識したのだと思います。また、一生懸命教えてくださった先生の姿にも感動させられ、日本語の魅力も感じました。

大学時代の日本語祭り@クラスメートと自作の浴衣をファッションショーに

筆者:日本への本格的な留学はその直後ですか?

マイさん:いいえ、実は日本の筑波大学へは最初1年間だけの短期留学でした。日本の文科省奨学金によるもので、1年間つくば大学で勉強していた時はその後のキャリアについては明確に考えておらず、まずは新しい世界を見てみようという心積もりでした。つくば大学は知られていませんが、世界中から研究者が集まる大学で日本でも留学生が多く集まる土地でした。

宮崎県高鍋町でホームスティ体験

筆者:つくばでの生活はいかがでしたか?

マイさん:日本の中でも比較的田舎でしたので、日本の伝統的な生活や考えに触れる機会に恵まれましたね。将来の夫となる男性とも、つくばで縁が出来ました。ただその時はベトナムへ一時帰国を控えており、まずはベトナムで少し自分の学んだ日本語を使ってみようと思っていたものです

筆者:どんなお仕事を最初に経験されたのですか?

マイさん:ハイフォンで日系企業のベトナム人マネージャー向けの日本語講師を経験しました。自分よりも遥かに社会経験豊富な方に、教鞭をとるのは大変緊張しましたね。加えて、私が学んできたのはビジネス日本語で、日本語教育については素人です。もう一度しっかりと勉強したいと決意することになりました。

筆者:2012年には再度日本に帰ってこられたのですね

マイさん:そうです、2回目は日本語の世界やその価値観を如何に保ち日本語を教えるかを学ぶために、日本語教師養成プログラムに参加し、日本語教育の世界に本格的に入りました。13年には遠距離恋愛をしていた彼と結婚し、14年には新しい家族が生まれました。まさか外国で家族に恵まれるとは、人生不思議なものです。

 

旦那さんと長男、友だちのお子さんといっしょに撮った写真

母国で日本語の精神を伝え広める日々へ

筆者:そんな中、ベトナムへの帰国、家族移住を決めたのはなぜでしょうか?

マイさん:つくば大学では研究者として学んでいく中、自分が得た知識をどうやって社会に活用するか真剣に悩んだ時期ともいえます。夫は複数の事業を立ち上げており、ベトナムへ移住するのが乗り気な一方で、私が悩んでおりました。子供たちのことを考えたら、医療やインフラが整っている日本の方が、良いのではないかという理由です。

筆者:子どもさんのことでなやまれていたのですね。

マイさん:最終的に長男の小学校進学をきっかけにベトナムへ家族全員で移住することになりました。子どもたちに日本では少なくなった、地域全体で育つ社会を味わってほしい。自分が日本で学んできた世界を、ベトナムの若い学生に体験してほしいという思いから、私もベトナムで事業を立ち上げることを決意したのです。 

筆者:どのような事業を立ち上げられたのですか?

マイさん:日本語で考えられる人間作りを目標にした、日本語学習事業です。日本とベトナムの関係性が深まるにつれ、日本語テストの合格を目標にした日本語教室が激増しました。もちろんすそ野が広がることはいいことですが、言葉はその裏側に広い世界を擁しており、学ぶことで人格形成にもつながります。

マイさんが起業した、ハノイを中心に日本語教育を展開するNihongo Plus(https://kids.nihongoplus.com/

筆者:日本語はどんな世界を持っているのでしょうか?

マイさん:相手を思いやる世界観や、周囲と協調出来る人格形成を促す世界です。私自身で今は日本語で考えることが多くなっており、ベトナム人としてだけではなく日本人としての魂を持った人間になったと感じています。大人が勉強するだけではなく、ベトナムの子供たちに小さい時から別な言語で考える習慣を養う場を作り、多くの子供たちに豊かな心を作っていくお手伝いを今後も継続していきます。

子どもから大人まで、日本語の世界を伝導するマイさん

ベトナム出身ながら、日本の心と文化の発信に日々尽力するマイフォンさん。学校教育が難しい状況でもありますが、東アジアで活躍する教育家の成功を私たちも応援しましょう!

 

 

加藤 勇樹