八王子にあるゲストハウス皎月山荘は、坂を上った先にひっそりと佇む、自然に囲まれた木造日本家屋で、まさに山荘といった趣があります。これを営む韃靼晟大さんは、内モンゴル自治区出身の方です。
皎月山荘という名前は、百人一首にもなっている阿倍仲麻呂の歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」に由来するそうです。中国語訳されたこの歌には「皎月」という語が登場します。この宿からは月がきれいに見えることから、韃靼さんは阿倍仲麻呂も中国から、このようなきれいな故郷の月を想っていたのだろうか、と考えたのだそうです。それではインタビューに移っていきます。
〇生い立ち
私は生まれ育ったのは内モンゴル自治区で、大学を卒業するまではモンゴル語で教育を受けました。卒業してちょっと働いたあと、2005年に日本に留学して、8年間日本にいました。その後、2013年には研究の方に行こうと決めて、西安でポスドクとして働きはじめました。農業文化遺産というテーマで、人類がどうやって農業をやってきて、その文化はどのように定着したかを研究していたんです。
西安に行くまで、私は中国文化にあまり深くは触れてこなかった。中国語もそもそもあまりしゃべれなかった。西安ではじめて中国文化に触れました。西安は中国の古い都で、中国文化の核になるところかなと思います。そこで何千年の歴史ある文化にふれ、偉大な中華文化だな、優れたところがたくさんあると感じました。
そこで、日本に長い間留学したと言うと、茶道、香道など、日本のことを聞かれるんですね。聞いたことあるんですけれども全く分からなくて、それがショックだったんです。それで恥ずかしくて調べて、日本の伝統文化や工芸に興味を持つようになりました。
西安では、日本と行ったり来たりの生活が3年続きました。その後、中国で大学の教員になるか、日本に戻るかという選択肢があったんですが、特に家族には、中国では慣れないことも多かったんですね。妻は私の高校のクラスメートで、2000年から日本に留学していて、彼女とは日本に来る前に結婚しました。子どもは二人いて、二人とも日本で生まれています。比較的慣れているところの方がいいなということで、日本に戻ってきました。
〇ゲストハウス経営の経緯
日本に戻ってきて、再就職するか、また何かするかということになったんです。それでその頃、民泊というものが言われはじめていたんですね。これやったらいいかもしれないなあと、都内で物件を探しはじめました。けれども、なかなか自分の理想的な物件は見当たらなかった。私のイメージとしては、小規模なホテルみたいな感じだったんです。
そのときたまたま高尾の方に遊びに来て、この物件の情報があったんです。それで来たら、一目惚れで。本当に好きになりました。でも、まさかそれを民泊にしようとは一切思ってなかったんですね。1,300㎡くらいの土地で大きい建物、買えるわけではない、と。でも帰った後、何回も夢に出てくるようになりました。
その後、この物件はしばらく売れず、ばらして更地にすると聞きました。私の見た限り、東京にはこういう建物が少ないなという感じがあって、それはもったいないと思ったんです。どうしても残したい、場合によってはこれは神様から私に与えられた任務であったり、やるべきことだと考えちゃったんですね。それで、持ち主に譲っていただけないかと交渉したら、その場でそれは不可能、と返ってきました。ここは古い土地で、古い居住地に一人、外国人を入れるわけにはいかないと。この物件の良さを大勢の人に伝えて喜んでもらいたい、ここを日本の伝統文化を私なりに発信できる場にすると約束し、半年間交渉して、ようやく譲ってもらえました。それで、その後はずっと建物の修繕、手入れをやりました。
そういったなか最初は、お茶やお花、お香、工芸の先生たちを中国に招待して、成都や西安で教室をやっていました。それで、その生徒たちを日本に見学ツアーに呼んで、たとえばお茶がテーマのときは、まず最初の二日はここで集中講義を受ける。その後、お茶の文化の伝わってきたルートに沿ってまわったり、お茶の産地を見てみたり、焼き物や茶筅の工房に見学に行ったりします。そういったツアーを農業とか仏教とか、いろんなテーマごとに作っていました。
〇食事を提供しはじめて
もともと海外から、それからツアーでいらっしゃったお客さんに、私は食事はほとんど出していませんでした。けれどもコロナのなかで、みんな家に閉じ込められていた時、友達から「私の子どもはもう我慢できない。遊びに行きたい。食事作ってくれないかな、お金出すから」と電話があって。それで料理を作って出すと「来週は友達の母親の誕生日で、また食事出してくれないかな」と言われて、また出したらみんな大喜びで。そこからまた口コミで広まって、と続いて今に至るんです。
ここで出す料理はお祭りやお正月、結婚式などで出されるもので、仕込みに長い時間がかかります。こういう料理は普通のレストランには合わない。だから、ここでは他のレストランでは食べられないものが食べられると話題になりました。こういう料理を選んだのは、コロナのなかでみんな実家に帰れないので、故郷の味を食べたかったからなんです。それで自分の好きなものや、母に電話で聞いた昔食べていた料理をアレンジして、提供しています。
ここは商売としてはあまりプラスにはなっていない。今までずっと私の負担になっています。でもどうしてもこの物件を残したい、その素晴らしさをみんなに伝えたい、という気持ちが強くて。年中修復することがあって維持が大変で、もうあと一軒分くらいのお金を使ってしまいました。お茶の道具とか工芸品とかを海外に売ったりしていて、そこで儲かったお金を全部、こちらに入れているという感じです。また、ここを料理店として宣伝したことはなくて、ほとんどの人が口コミで来ています。多くの人が宿泊のサイトやGoogle Mapの書き込みをして、満足し、応援してくれているのを感じます。だから、やめられない。
コロナ前、お正月に大家族で来てくれていたおじいさんに「子どもたち、孫を集めて過ごす。どこに行ってもこういう場所はない。ホテルだと結局各部屋に離れていく。ここだと24時間一緒。これ以上の幸せはない」と言われたことがあって。こういう喜びの声を聞いたら、やめられないところもあります。何十年か前はこういった大きな家で暮らしていましたけど、特に東京ではこういった家を見るチャンスはますます少なくなっています。
今は内モンゴルからの留学生がバイトとして働いています。彼が通っている専門学校が八王子にあるんです。こちらの仕事が好きみたいで、来年卒業するのでここに就職したいと言っています。それはちょうどよかったな、と思っています。彼が就職したら、今のところは大丈夫なので。
〇内モンゴルと日本
コロナのなかで日本に帰化することになったんですが、完全には日本人にはなれない。言葉や細かいところは、いくら勉強しても分からない、できないと思うんです。でも私から見た日本人や日本文化の素晴らしさも、日本人には気づかないところがあるかもしれない。
最初2005年に留学した時は、アルバイトばかりしていたんですけれども、きついな、いつでも帰りたいと思っていました。でも1年くらいたって、ちょっと日本語が分かるようになりました。そして日本を素晴らしいと感じたのは、道路にゴミが落ちてないことです。昔の自分は無視していたんですけれども、1年後には自分で拾うようになったんですね。環境によって自分が生まれ変わりました。モンゴル人の私は、細かいところは苦手です。けれども、だんだん細かいところを気にするように変わりつつあります。
父は日本に2回来たことがあったんですが、その後、癌で亡くなってしまいました。母も何回か日本に来ています。母は60歳までは田舎の方で暮らしていましたが、私の兄と姉と、フフホトに移住しました。内モンゴルの都市です。妻の親戚家族はみんな田舎者です。赤峰というところですね。今は道ができて車も通れるようになったり、ガオティエ(高鉄=中国の新幹線)もできたりして、移動も短くなっています。
日本に留学してきた後輩たちは、考え方や生まれ育った場所も違うのかもしれない。昔からモンゴル人には、商売は良いことではないという考え方があって、商売が嫌いな人たちが多かった。今の若者たちは、商売をやったり、独立とかを目指してやっている人たちが多いです。金持ちになっている人がたくさんいて、内モンゴル人の奨学金をつくったりしている人もいます。
私の考えでは、政治は政治、でも民間レベルでは交流を深めなければならない。地域の人と北京の人の交流会、お弁当会をここでやったこともあります。この場を生かして何か交流するチャンスがあれば、この施設の存在する価値があるかなと思っています。内モンゴル人だったりモンゴル国の方々と、日本人を呼んで交流会を作ったりすることも、可能かなと思っています。
韃靼さんはとても気さくな方で、インタビューは終始朗らかな空気で進みました。さまざまなトピックや時代の話が入り混じった形となり、私たちは、いくつもの土地で生き、多様な経験をされてきた韃靼さんの記憶を、まるで少し追体験しているかのようにも感じられました。
さまざまな人との、一つひとつのつながりによって、韃靼さんは日本で生きてこられたのではないか。インタビューを終えて、私はそのような思いに至りました。韃靼さん、ありがとうございました!
文責:石塚大智
<取材協力>
皎月山荘
〒193-0826 東京都八王子市元八王子町1丁目60−2
電話番号:042-699-0945