芥川賞作家・李琴峰さんインタビュー

人を知る

さる11月17日の午後、文藝春秋社にて、作家の李琴峰さんにインタビューを行いました。李さんは台湾出身の日本語作家で、2021年度上半期に『彼岸花が咲く島』で第165回芥川賞を受賞されました。

 琉球を思わせるある島に流れ着いた主人公の宇実(ウミ)が、島で知り合った遊娜(ヨナ)と拓慈(タツ)との交流を通じて島の歴史をめぐるある秘密に迫っていく、というこの小説では、アジアの歴史・言語についての実験や、男女の性をめぐる要素が大きな役割を果たします。今回はそんなアジアの「越境」をめぐる本作と、著者ご自身の想いについて、李さんご本人にじっくりとお話を伺いました。

 [李琴峰さん紹介]

1989年台湾生まれ。大学卒業後に来日し、2017年、日本語で執筆した『独り舞』で第60回 群像新人文学賞優秀作を受賞しデビュー。2019年、『五つ数えれば三日月が』で第161回芥川 賞および第41回野間文芸新人賞候補に。2021年、『ポラリスが降り注ぐ夜』で第71回芸術選 奨新人賞。同年『彼岸花が咲く島』で第34回三島由紀夫賞候補および第165回芥川賞。

※以下、『彼岸花が咲く島』の内容について触れている箇所がありますので、未読の方はご注意ください。

 聞き手:井上・野中(茶話日和)

 受賞後の反響

井上:芥川賞の受賞おめでとうございます。受賞をうけて、読者の方や台湾にいる方からはどのような反響がありましたか。

:芥川賞は知名度が高い文学賞なので、ありがたいことに取材の申し込みが増えたり、お仕事が増えたりしました。そして史上初の台湾人受賞者ということで、台湾のほうでも注目してもらう機会になりました。

 私は日本語で執筆しているので、読者の多くは日本語を読む方です。例えば私は自分のホームページを持っていますが、普段はほとんど日本からのアクセスばかりです。ところが、受賞の情報が出たあとの数日間は、台湾からのアクセスが一気に増えました。芥川賞の注目度の高さがうかがえます。ただ残念ながら今のところ、中国語で読めるのは『独り舞』と『五つ数えれば三日月が』の2冊だけです。これから中国語圏にも読者を広げていきたいと思っています。

    

                           李琴峰『彼岸花が咲く島』(文藝春秋、2021)

『彼岸花が咲く島』における言語実験

 野中:『彼岸花が咲く島』の舞台となる島では、中国語、台湾語、日本語の交ざった言語〈ニホン語〉が話されています。中国語を知っている人がこれを読むと、この混交言語の中で中国語の拼音(ピンイン)の音が利用されているなどの点に気がつきますが、中国語が一切分からない人が読んだ場合に、日本語の中に異なる言語の表現が導入されていて、違和感を抱くようになっていますね。言葉を交ぜすぎると読めなくなってしまうし、もはや言語ではなくなってしまう可能性もある。中国語と日本語を混ぜるバランスが難しいと思うのですが、どのようにこの言語を組み立てられたのでしょうか。

:やはり私の作品のメインの読者は日本語を読む方々なので、日本語表現の中に中国語や台湾語の言葉を入れると、それだけ読むハードルが高くなります。でもぎりぎりのラインを攻めたいなと思って。日本語の読者がちょっと落ち着いて、しっかり考えながら読めば、意味が伝わるような文法体系を考えました。

 そこでポイントになったことが2つあって、1つは日本語の古い、漢文訓読的な文法です。普段は使わないけれども、考えながら読めば意味が伝わりますよね。2つ目はルビ。日本語においてこれはとても便利で、意味が通じにくいと思った箇所に振るなど工夫しました。ただ、そもそもすべての箇所が簡単に読める形になる必要はないと考えていて、例えば、小説の中に出てくる歌などは一種の呪術的な言葉として使っているので、意味が分からなくてもいいかと思い、特に説明は入れませんでした。 

日本語と中国語のあいだで

野中:執筆にあたって意識する、李さんにとっての中国語の特性のようなものはありますか。

:中国語は音楽性、リズムを大事にする言語だと思いますね。

 例えば散文では、南北朝時代に四六駢体文(しろくべんたいぶん)というものが生まれています。これは4・6のリズムをひたすら繰り返す、とても整った文章のスタイルですね。しかもそこに使われている言葉もとてもきれいで耽美的。

 しかしそれでは修飾的すぎるという批判があって、秦や漢の文章に習うべきだという古文運動が唐の時代に起こります。日本語読者の方にとっても馴染みが深い漢詩のスタイルが確立されたのも唐の時代ですね。絶句や律詩など、耳なじみがあるのではないでしょうか。リズムがしっかりと整っていて、平仄(ひょうそく)も全部決まっているという、近体詩のスタイルが1000年以上前に確立されている。

 これらのことから分かるように、音楽性は特に中国語の特徴を代表するもので、とても大事にされてきました。それは現代においても変わりません。例えば武侠(ぶきょう)小説は中国語のリズム感がよく分かるジャンルですね。金庸の武侠小説は言葉遣いが奥ゆかしく、音楽性も非常に大事にされている。中国語の文章を読むと一種の音楽的な楽しさが得られるような気がします。

野中:それと対比した場合、日本語の特徴はどういったところにありますか。

:日本語は中国語と比べて音楽性やリズムのしばりが緩いですね。だから例えば俳句は5・7・5で、短歌は5・7・5・7・7という形式はあるけれども、字余りとかが許容されますよね。中国語の場合、漢詩などでそうしたことは絶対にない。さらに日本語には平仄や四声もない。そこに大きな違いがありますね。

故郷を探さない越境文学

井上:『彼岸花が咲く島』において、言語と並んで大切なテーマに「越境」がありますよね。本作で記憶を失くして島にやってきた主人公の宇実は、たんに自らのルーツやアイデンティティ探しに奔走しているようには見えない。旧来の移民・越境文学においては自分や親族がどんな土地からやってきたかということが主軸となって、ふたつの場所の民族的・言語的アイデンティティに板挟みにされるさまを描いてきたものが多いと思っているので。

:宇実も自分の過去が気にならないわけではありませんが、ただ過去の自分にこそアイデンティティがあると信じているわけではありませんよね。むしろ新しい地でいかに自分の居場所を探していくか、見つけていくかが物語の軸になっているといえると思います。 

『1984』のディストピア、『桃花源記』のユートピア

野中:今回初めてのファンタジー的な作品ということで、『彼岸花が咲く島』を書く際に参考にされた小説などはあるのでしょうか。

:書いているときに意識していたのは、ジョージ・オーウェルの『1984』です。これはディストピア小説の中心ともいえる小説ですよね。ディストピア小説は世の中に無数に存在しているので、それをただなぞるだけでは面白くない。そこで、ユートピアとディストピアが隣り合わせになっている世界を書いたら面白いんじゃないかと思ったことから、『彼岸花が咲く島』の世界が浮かんできたんですね。

 もう一つ、陶淵明の『桃花源記』もこの作品を書く際の参考になりました。『彼岸花が咲く島』の島の設定は、この桃源郷のイメージから着想を得ているところがあります。秦の始皇帝の時代、戦火を逃れた人たちが桃源郷の中に移り住む。彼らは子々孫々、代々その中で暮らしていて、外の世界のことを一切知らない、というのが桃源郷の設定です。外の世界では秦は終わって、さらに漢、晋……と時代が交代しているのもまったく知らずに、中で安穏に暮らしている。桃源郷は東洋のユートピアのある種の共通イメ―ジだと思いますが、社会から隔絶された共同体が理想というのは面白いですよね。

白黒の活字の中の色彩美

井上:『彼岸花が咲く島』では彼岸花のモチーフがとても印象的に用いられていますよね。白い衣装を着た宇実が真っ赤な彼岸花に取り囲まれている冒頭のシーンと、ラストシーンの妖艶に咲き乱れる彼岸花の描写が、小説内で目を引きますね。

:おっしゃるように、彼岸花の色彩はこの作品において重要なモチーフとなっています。小説は完全に白と黒の活字の世界なので、私は色彩美を意識して書いていました。とくにこの小説の場合は架空の島が舞台なので、情景描写に力を入れないとなかなかイメージが伝わらない。彼岸花の赤、ノロたちの白装束、そして海の青、空の青に、さまざまな植物が生い茂っている、そういう島の描写には力を入れていましたし、地図を用意したのもそのためです。

野中:さらにこの小説において彼岸花は、物語の展開にかかわってくる重要な花ですよね。

:この物語において、彼岸花は二重性を持っています。島の中では薬として使われて、島の外ではアヘン貿易的な商品として出荷されている。つまり、彼岸花は毒にも薬にもなる。ここにもユートピアとディストピアの二重性が見られますね。

 またそもそも彼岸花という字面からして面白いですよね。「彼岸」は沖縄琉球伝説のニライカナイと響き合うところがあると思います。ニライカナイは海の向こうの楽園、神々の住んでいる土地のこと。私たちの生きている現世の向こう側にあるのが「彼岸」ですよね。

「家族」「血」へのこだわりに抗って

野中:『彼岸花が咲く島』の作品世界における家族の形もとても新鮮でした。この島では親子には血のつながりがありませんし、家族は異性愛のものだけではないと象徴的に示されている。

:厳密にはこの島にはいわゆる家族という形態そのものが存在しませんが、この島のように個人が中心となって成立している社会や制度は、自分の中では比較的理想に近いところにあります。今の日本でも家族の絆みたいなものが盛んに呪文のように唱えられていて、その実質を誰も見ようとしないんですよね。そして私たちが生まれた環境で、ある程度人生が決まってしまうという不条理さについても、目をつぶっていると。

 そもそも「血」へのこだわりは、人類の歴史の中でずっと強調されてきましたよね。例えば昔の皇帝は世襲制だったわけですから、子孫を残すこと、跡継ぎを産むことが一大事だとされていた。今でも、自分の遺伝子を残したいから子どもを産みたいという考えがあり、しかもそれがよしとされている風潮さえある。でも果たして血というのは本当に、そこまで大事なものなのかという疑問がありますね。むしろ血へのこだわりがあるからこそ、いろんな争いが起こっているんじゃないかなと。だからこそ、作品の中では、血縁的なつながりが重要視されていない世界を作り上げたのです。 

井上:最新作の『生を祝う』にも共通する部分がありますよね。この世界に生まれてくることがそもそも誰によって認められるべきなのか、という。そうした作品の構想は、以前からずっとあったものですか。

:前々から、いくつかあったと思います。よくネット上では、小説にはあまり思想が出ないほうがいいとか、著者の思想が出すぎると嫌になるとか、よくないとか、いろいろ言われるけれども、どんな作品でも創作であるかぎり、それは思想が出ているものだと思う。例えばもし、自分は作品の中に思想は込めていないと言う書き手がいれば、それは自覚していないだけで、思想は必ず入っている。

 極論を言うと、作家や物書きというのはある意味、思想を文章にして売る商売ですよね。だから当然世の中に対する何らかの問題意識みたいなところはあると思いますよ。ただもちろん全部同じものばかり書くと面白くないので、一作一作、いろんな手段を考えたり、設定を違うものにしたり、違う世界観にしたり、そういう新しいことをやりながら書いています。

創作は中学時代から

井上:李さんの作品に表現されている思想に影響を与えたものにどのようなものがあるのでしょうか。

:それは一言ではなかなか、語り尽くせないんですね。すごく大きい質問なので。そして何が今の自分に影響を与えているのかというのは必ずしも自覚的なものばかりではなく、自分が気づいていないところに影響を受けているということもあるかもしれない。ただ記憶しているかぎり、言葉による表現が好きなのは、大体中学生くらいから。日本語を勉強し始めたのも中学生くらいですかね。それからずっと今まで続いているっていう感じです。それと同時に、やっぱり周りの人々とか、世界とか、社会とかとちょっとかみ合わないみたいなところを感じていました。

井上:李さんは大学時代にも日本語を専攻されていましたよね。

:私は台湾大学に通っていて、中国文学と日本語日本文学の、2つの専攻を持っていた。ダブルメジャーですね。そういうふうに勉学もしつつ、そして日本にも1年間留学していました。

 創作自体は中学生のときから好きで、昔は主に中国語で書いていました。勉強も頑張った方だと思います。

カテゴリーは本質ではない

野中:この小説は人の性別や言語、アイデンティティといったものを特定の枠に押しこめて見ることが難しい。拓慈は一人称が私で女語を話すから女性のように読めるところもあり、宇実の名前も、「ウミ」という音であれば日本語なら男女どちらの可能性もありますよね。彼岸花の二重性や、登場人物のセクシュアリティやアイデンティティ、共同体のあり方など、『彼岸花が咲く島』はカテゴライズ不能なものを提示することによって、カテゴライズの暴力性の問題を突きつけている気がします。

李:そのように感じていただけるとうれしいですね。そもそも名前の性別のイメージって、時代によって変わってたりするんですよね。今の話を聞いて、名前もまた時代によって変わるもので、絶対的なものではないなと思いました。例えば小野妹子は男ですよね。

 しかしカテゴライズというものはやっかいなものです。私たちはカテゴリーなしで世界を認識することができないから、カテゴリーはどうしても必要だという側面はある。ただ、それが一種の暴力と化すことがあるんです。カテゴリーは、あくまでも他者や世界を認識するための方便であって、本質ではない。日本文学と中国文学の特性とか、日本人と中国人にはそれぞれこんな傾向がある、というのはかなり大雑把な見方ですよね。

 だから、カテゴリーからはみ出る人がいるのは当たり前なんです。あくまで便宜としての道具だから。それなのに、時としてそういう人達に対して、あなたははみ出し者で、他人と違っているからいけないんだと、カテゴリーを押しつけてしまう。カテゴリーそのものが悪いというわけではなく、それが持っている暴力性にこそ気をつけなくてはならないと思うんです。この世界は我々が作り出しているカテゴリーよりももっと複雑で繊細なものなんだ、ということを常に認識していなければならないと思います。

野中李さんの『ポラリスが降り注ぐ夜』もまたそうした重大なテーマを扱っていて、LGBTとくくられるような人々の中にある多様性と、そうしたくくりによって生じるある種の危険性について考えさせられました。

:『ポラリスが降り注ぐ夜』はおっしゃるとおり、LGBTという言葉だけでは伝わらないような繊細な多様性、というものが書きたくて書いた小説です。人間は他者に対して、とりあえずカテゴライズをして、名前を付けておくと分かった気になってしまう危険性がありますよね。今は国民や国家というものが当たり前のように存在していますが、国でひとくくりにして、特徴や共通点があるつもりになって、その人を分かった気になることがあります。中国人はこうだ、日本人はこうだ、とレッテルを貼ると安心してしまうけれど、本当は何も分かっていない。

 そして、マイノリティをマイノリティとしてラベリングして分かった気になるというのは、マジョリティ側にいる多くの人がやってしまうことだと思うんですよ。でも当たり前ですが、そういうセクシュアルマイノリティの中でもいろんな立場や考え方の人がいます。そもそもセクシュアリティの多様性というのは、LGBTという言葉ではとうてい語りきれないものです。実際これまで、少なくとも私が読んできた日本文学の作品の中で、そういう多様性を繊細に書いている作品はなかったと思うんですね。だからこれは私が小説に書かなければならないと思って、『ポラリスが降り注ぐ夜』が生まれました。 

李琴峰作品の持つ魅力

野中:『彼岸花が咲く島』をはじめ、李さんの作品を読む楽しさは、新しい世界を知る喜びとつながっている気がします。

李:自分の知らない世界を見せてくれることこそ、小説、文学の力だと思います。私たちが生きる場所は限られていて、時間だってせいぜい100年しか生きられない。けれども小説が存在するおかげで、自分が行ったことのない世界、生きたことのない時間、出会ったことのない人物と出会うことができる。それこそが文学の力なんじゃないかな。セクシュアルマイノリティが現に存在しているということ、あるいは自分の住んでいるところとは違ういろんな国や地域があって、そこで育ってきた人がこの世界に存在しているんだということ。そういうことを教えてくれるのが、文学なんじゃないかなと思います。

井上:やはり読者に新しい世界を見せたいというのは、李さんにとって小説を書く大きな動機なのでしょうか。

:うーん、小説を書き続けている動機は、小説家を職業としているからなんですけれど……(笑)。ここでは、小説塾をされている、『海燕』という文芸誌の元編集長の根本昌夫さんの言葉を借りさせてください。根本さんは著書の中で、人が小説を書くのは過剰と欠如があるからだとおっしゃっていました。何か、あふれ出るもの、余るものがあるからこそ、あるいはちょっと足りない部分があるからこそ、人は表現したくなる。私も、創作の意欲や動機というものは、結局そこに尽きると思います。

李さんの作品の背景や問題意識、言語やアイデンティティーの問題に対する創作姿勢など、たいへん興味深いお話を伺うことができました。李琴峰さん、ありがとうございました!

【書誌情報・書籍購入はこちら】

李琴峰『彼岸花が咲く島』(文藝春秋、2021)

 

takaharunonaka