日本から飛行機で2時間余り。隣国韓国は日本から一番近い国です。しかし同時に、テレビで流れるニュースなどからは時には遠い国のように感じることもあるのではないでしょうか。そんな中、我々はこの度、芸術を通した日韓交流や在韓日本人向けの保険の営業などに携わる佐藤祐子さんに、韓国に来た経緯や韓国での暮らし、現在の活動、韓国社会のジェンダー、韓国と日本の根深い問題などについてお話を聞かせていただきました。
―――まず、韓国に来た経緯を教えていただけますか。
「韓国人の夫との結婚を機に渡韓しました。元々出身は山形で、高校卒業後に進学のため東京に出たのですが、実は主人の兄嫁も日本人で、紹介という形で会うことになりました。そういう意味では上京には意味があったと思います。主人とは遠距離恋愛をしていたのですが、電話をしたり、たまにお互い行き来してやり取りしながら結婚に至り、現在は鎮海という地域に住んでいます。」
―――韓国に移住することに対して、ご両親やご友人の反応はどのような感じでしたか。
「韓流ドラマも始まってない2000年ですからね。私も正直、単なるとなりの国ぐらいしか認識がありませんでした。もともと高校卒業後は東京に出ていましたし、私のやりたいことは応援してくれる親でしたので、ものすごい反対はなかったです。」
―――保険の営業を始められたのはいつですか、またきっかけは何ですか。
「2000年から6年間、ご両親と同居していたのですが、その後独立して財産目録を見た時に、主人の保険がないことに気づきました。保険が必要というのは良く聞いていたので、インターネットで自分なりに探すも、韓国語の専門用語で分からなかったんですね。そこで分かりやすく説明をして欲しいとお願いし、来てもらったのですが。この方が保険だけじゃなく、銀行、証券、不動産まで、総合的な観点でのやりくりを教えてくれて。『これは私みたいな外国人にとって必要な情報だ』と思い、在韓日本人のお手伝いができればとの想いで始めることになりました。子育てをしながら保険の営業を開始したのが2009年。韓国全土に日本人は多いけど、いろんな地方に散らばっているため、オンライン上で情報提供し、関心のある人が相談してくる形でお客さんを増やしていきました。以前はインターネットの掲示板、小冊子配布、今はインスタグラムなどで定期に情報発信をしています。やはりこういう仕事をする上でSNSは強いですね。オフラインはもちろん、ZOOMなどでセミナーも行っています。」
―――現在のhappy artsの活動もそれとなにかつながりがあるのですか。
「お客さんと話していると、才能はあるのに、外国で、しかも地方で埋もれている人たちが多いことに気づきました。例えばハンドメイドの才能がある人が、作品を発表したり地域のマーケットに入るのは敷居が高いんですよ。なのでそんな人たちで集まって、フェアを開いてみようというのがhappy artsの始まりでした。みんなどこかで表現する場所が欲しかったんだと思います。2019年から始まったフェアは現在も続き、これで生活が変わったメンバーも多く、いきいきと活動される姿に感動することもしょっちゅうです。基本的に、釜山日本人会から予算をいただいて活動を行っている他、芸術を通した日韓交流という意味で、地域のお祭りでもオファーが多く、日本文化紹介を含めた出し物の準備で忙しい日々を送っています。また、日本のお祭りを表現することは、子供たちに日本文化を伝えるにとても良い機会になります。日韓夫婦の二世になるの子どもたちの中には、自分のアイデンティティを護れなかったりする子もいるので、こうやって日本の遊びや文化に触れることで、自尊心を持てるきっかけになるんですよ。」
―――happy artsで活動をするにあたって大変だったことはありましたか。
「コロナの時期を除けば、一時不買運動で、日本人としてフェアを行うことが難しかった時期がありましたね。根本的に、ハンドメイドは手がかかる分、趣味でも参加すること自体楽しいという人でなければ、売れない限り継続は難しくなる。そこにたまにですが、国同士の軋轢の矢面にまで立たされるとなると、ちょっと大変ですよね。去年、とあるイベントで日本ブースを担当したのですが、それ自体は好評だったのに、歴史問題をからめて批判する人たちも実際いました。フェアで浴衣を着て写っている団体写真がモザイク入りで反日的なニュースとしてあがったりしたんです。でもだからと言って、なにもせず、家に引きこもっておとなしくしていればいいのかというと、それは違うと思うんです。そうは言っても日本が好きな韓国人もたくさんいますからね。そういう人たちのために続けていきたいなと思っています。」
―――不買運動という話が出ましたが、韓国で日本人が生きていく中で感じたものはありますか。
「子育てをしながら大変なことが多かったという感じですね。でも日本の文化も韓国の文化も受け入れられるように強く育てるというのが私の基本的な方針です。私は東北出身で、ほとんど韓国と接点がなく、恥ずかしながら竹島がどこにあるのかもわからず、韓日の間の溝がこんなに深いとは思わなかったです。架け橋になりたいという言葉さえも『簡単に言えないな』と実感しています。ですが目の前に、実際に戦時中を経験したおばあちゃんがいれば、やはり『大変でしたね』と、その想いは受け取る。日本人でありながら韓国に住むっていうのは、政治的な白か黒かでは分けられないグレーゾーンにいることが多くありますが、個人的に一人の人間として、わかりあえる部分は真摯に向き合っていきたいと思っています。」
―――長らく韓国に住んで、日本や日本人に対する周りの感情はここ20年で何か変わったとは感じますか。
「昔は『日本人』と言うといけないという感じでした。3月1日の独立運動記念日などは外に出るのが怖かったです。実際にテレビなどでの報道は日本の韓国に対する功罪が多く取り上げられていましたが、今はその当時に比べたらかなり少なくなりました。先ほどのニュースに上がったというフェアも、そもそも着物や浴衣を着て外を歩けること自体、昔を思えば考えられないほど寛容になったと思います。多くの人は日本が好きで、私より遥かに高い頻度で日本に遊びに行っている人も多いですし、日本食を売るお店も本当に増えましたよね。」
―――鎮海での生活はどんな感じなのですか。
「いろいろありながらも楽しいですね、23歳でこっちに来ているから人生の半分は韓国になりつつあります、24歳で早く母親になり、外国生活、ご両親との同居、年子育児が同時に来た3年間は本当に大変でしたが、特に6年間の同居生活の中で、韓国の文化、情をたくさん感じれたと思います。」
―――20年間外国に住むってどういう感覚なのですか。
「山形はもちろんふるさとで大好きですが、今ではここのほうが知り合いが多くて、帰ると浦島太郎状態になりますね。特に芸能人の話とか。前に日本語教師やってた時期があって、生徒から流行ってるアイドルの事とか聞かれたんですけど、『え、わかんないです』って感じでした。逆に今日本に帰ると韓国の話題が多かったりして助かりますね。」
―――20年間韓国で暮らすなかで、韓国語はどのように習得されましたか。
「韓国語は日本でも少しだけやって、韓国に来てから語学堂に半年ぐらい通いました。主人も日本語をやっていたんですけど、私の方が先に覚えてからはしなくなっちゃいましたね。」
―――今は家庭内ではどの言語を使っていますか。
「ご両親との同居で家の中では日本語を使ってはいけないと言われていました。子供たちは日本に来るたびに日本語を喋ったりしていたんですけど、戻ってくると完全に韓国語の環境でしたし、私も思春期のときなどは子供の思いとかを汲み取る上で親が子供の母語をできないといけないと思い勉強したので、基本的に深い話も韓国語でおこなっています。私も仕事で韓国語を使うので難しいと思ったことはありません。」
―――お子様たちは現在韓国におられるのですか。
「子供たちは今日本にいます。娘は日本の短大に進学し、息子は韓国の大学から教授の紹介を受け、大阪で働いています。二人とも自分から日本に行きたいと言い、それはよかったなと思いました。若い時にはいろいろ体験して欲しいです。」
韓国における競争の激しさは年々勢いを増している。佐藤さん自身の生活や子育てにおいては何か苦労したことはあったのだろうか。
―――韓国は近年競争社会となっていると聞きますが実際どうなのですか。
「もともとはハングルを覚えさせて小学校にあがれば良かったのに、今はもう幼稚園で英語も漢字も基本的にやらせます。教育費が半端じゃなくて。高校になったら夜間授業が終わって10時ぐらいに帰ってくるんですけど、その後で塾に行くんですよ。本当に寝るために帰ってくるみたいな感じで。勉強が好きだったらまだいいと思いますが、それ以外の子は大変ですよね。高校に入ると、子供一人の塾代が50万~100万ウォン(約5~10万円)越える家庭も多くなり、大学で一人暮らしさせようと思ったら、ここ5年くらいで家賃も半端なく上がっていて・・。それを支えられる親の経済力がないとダメじゃないですか。韓国は一点集中なので、ソウルに行かないといけないっていう風潮もあって大変ですよね。かといって,一家でソウルで暮らそうと思ったら一般的な間取りのアパートが10億ウォン(約1億円)以上する。いれる人ってわずかしかいないわけじゃないですか。私が思うに魅せる文化はすごいと思うんですよ。芸能界とかはキラキラしてるんですけどやっぱりその格差は・・・。やっぱり結婚もしない、子供を産まないってなるだろうな、と思っちゃいます。」
出生率の低下には、競争社会というファクターの他に、女性として生きるということも関係しているのではないか。韓国における現代女性の生きづらさを描いた映画に、『1984年生まれ、キムジヨン』という作品がある。韓国におけるジェンダーについて、佐藤さんはどのような見解をもっているのだろうか。
―――ちょっと話は変わるのですけど韓国での女性の立場についてお伺いしたいです。
「それ言ったらキリがないですね。私も嫁いだ当初は出かけるのも良く思われなかったですよ。韓国のお盆とかお正月は、みんな楽しんでる中で一日中料理作り、片付けしてたり。男性中心で3世代同居が当たり前みたいなのは私の日本の実家も地方にあるので似てるかも知れませんが。少なくとも50代以上は日本より厳しくて保守的だと思います。また、韓国ってランプの世代からスマートフォンの世代が一緒になってるのでその反動でか最近はフェミニズムも強く、ちょっとやりすぎかなと思うほど男性攻撃になっている部分もありますよね。そういう世代は日本の『女子力』という言葉に反発を感じるんだそうですよ。」
―――佐藤さんが韓国に来られ、現在の活動を始めるまでのお話をじっくり聞くことができました。今後の展望はありますか。
「今後は、福岡や大阪など近場のマルシェの人達が、観光ついでに釜山でフェアに参加する、というのをやりたいです。逆もしかりですね。近い国同士仲よく交流していきたいです。多忙ですが、好きなんですよね、企画が。」
―――佐藤さんのお話にあった韓日の話はかなり深層にあるものでした。
「日本も韓国も同じですが、不景気で余裕がなくなっていく中で、攻撃の矛先が他者に向く、その矛先が全体の敵のようになるのはとても悲しい事と思います。日韓関係は私が思った以上に深い。解決というのにも相当な時が必要。でも何もしないよりはいいかなと思って動いています。色々苦労もあるけど強くなるしかないですね。草の根でやっていこうと思っています。」
異国の地で苦労しながらも、信念を持ち、韓国、日本の人々のために活動し続ける佐藤さんの芯の強さ、草の根レベルでの交流の大切さを学びました。国同士での政策などでは変えられない軋轢などを乗り越えるというところに、happy artsや弊団体『茶話日和』が存在する意義というのはあるのではないでしょうか。